【BUBKA7月号】天龍源一郎がレジェンドについて語るミスタープロレス交龍録 第31回「越中詩郎」

天龍源一郎は、その40年間の“腹いっぱいのプロレス人生”で様々な名レスラーと出会い、闘い、交流した。ジャイアント馬場とアントニオ猪木の2人にピンフォールでの勝利を収めた唯一の日本人レスラーであり、ミスタープロレスとまで称された天龍。そんな天龍だからこそ語れるレジェンドレスラーたちとの濃厚エピソードを大公開しよう!

写真(越中詩郎)/平工幸雄


 先月号は急な入院で休載となり、ご迷惑をかけました。振り返ると、3月5日に天龍プロジェクトの再始動記者会見に出席した頃には、すでに体調が思わしくなくて、食後にいつも膨満感があったんですよ。それはなぜかというと、水が溜まるという状態で、血液を全身に送り出すために心臓のポンプが一生懸命動いていたのが、だるいとか、息苦しいという症状になってたんですよ。だから、腹一杯ご飯を食べたわけじゃないのに膨満感があって、リクライニングに座っていると、グーッと腹を圧迫されている感じで、ずっと胃薬を飲んでいましたよ。あとは風呂に入っても体や頭を洗うのに疲れちゃって、出るまでに1時間半かかったりとか。で、娘に言われて病院に行ったら「うっ血性心不全です。すぐに入院してください」って言われて即入院になっちゃったんです。それが3月19日で、そこから40日間の入院でしたね。何リットルっていう水を抜きましたね。

 入院中、いろんなくだらないことを考えたんだろうけど、今は思い出さないですね。何となく過ぎた40日間でしたよ。ただ土日に競馬ができたのが気休めだった(笑)。1日3食病院食を食べて体重が落ちたから、もし引退していなかったら今の俺は世界ジュニアのベルトを狙っていると思いますよ(笑)。

 4月28日に退院して、5月12日に天龍プロジェクトの再始動第2弾の解説で新木場ファーストリングに行ったけど、やっぱりプロレスの会場の空気はいいなと思ったし、プロレスのファンは温かいなと思いましたよね。その日は眠れなかったですね。試合を観て、何かの感性が刺激されたんでしょうね。

 この時に一緒に解説を務めてくれたのが越中詩郎。彼は、俺が2度目のアメリカ修行中に全日本プロレスに入ってきたんですよ。79年の秋に帰国したら、大仁田厚、渕正信、ハル薗田の下に新弟子がいて「どこの出身なの?」って聞いたら「江東区です」って。プロレスは田舎者が入ってくスポーツだと思ったから、珍しいなっていう印象でしたね(笑)。入門前には野球をやっていたっていうのも、当時の新弟子としては珍しかった。後々思ったのは、野球をやっていた人間だから、考え方が柔らかくてスマートだなっていうこと。相撲とかから来た連中は偏屈だからね(苦笑)。そういうところがないスマートな人間だなって。あとは新日本じゃなくて、わざわざ全日本を選んだのも珍しいなって思いましたよ(笑)。

 でも、全日本時代はほとんど接点がなかったかな。馬場さんの付き人を黙々とやっていて、たまに「馬場さんだけは参りますよ」って愚痴が漏れ聞こえてくるぐらいで、特に面倒を見たわけでもないし。越中よりも、付き人になった元国際プロレスの冬木(弘道)を全日本に馴染ませなきゃいけないとか、彼は吃音に悩んでいたから、みんなにからかわれないように守ってやらなきゃいけないっていう気持ちが強かった。


――インタビューの続きは絶賛発売中のBUBKA7月号にて!


越中詩郎
1958年、東京都江東区出身。1978年7月、全日本プロレスに入門。 1979年3月5日、千葉県館山市民センターの対園田一治戦でデビュー。1984年3月より、メキシコ、東南アジアへ遠征、“サムライ・シロー”の名で暴れた。1985年8月、新日本プロレスに移籍後は反選手会同盟(平成維震軍)を結成してトップ戦線で活躍。1986年には初代IWGPジュニア王者、1998年には、天龍と組みIWGPタッグ王座獲得。その後三沢光晴とのシングルマッチなど多くの選手とリングでまみえ、現在も現役で活躍中。

天龍源一郎
1950年生まれ、福井県出身。1963年に大相撲入り。1976年のプロレス転向後は「天龍同盟」での軍団抗争や団体対抗戦で日本・海外のトップレスラーと激闘を繰り広げ、マット界に革命を起こし続ける。2015年の引退後もテレビなど各メディアで活躍中。