【BUBKA2月号】 天龍源一郎がレジェンドについて語る ミスタープロレス交龍録 第27回「アントニオ猪木(前編)」

天龍源一郎は、その40年間の“腹いっぱいのプロレス人生”で様々な名レスラーと出会い、闘い、交流した。ジャイアント馬場とアントニオ猪木の2人にピンフォールでの勝利を収めた唯一の日本人レスラーであり、ミスタープロレスとまで称された天龍。そんな天龍だからこそ語れるレジェンドレスラーたちとの濃厚エピソードを大公開しよう!

写真(アントニオ猪木)/平工幸雄 

 

 猪木さんで凄く印象に残っているのは、俺が敢闘賞、ターザン後藤が新人賞をもらったプロレス大賞の授賞式。猪木さんが受賞したレスラーひとりずつと「おめでとう!」って握手して、そうしたら後藤が一生懸命ズボンで手を拭いて待っていたのを憶えてるよ(笑)。あの頃はプロレス大賞のパーティーでも全日本と新日本の選手が右と左に分かれるような感じだったけど、猪木さんだけは我関せずで、みんなに「おめでとう」って。だから「変わってんな。この人」っていうのが第一印象だったね。

 今振り返ると、新日本プロレスを1回辞めた人間を受け入れるとか、猪木さんの姿勢は一貫して変わってないよ。長州力も前田日明も猪木さんの包容力に呑み込まれて、出戻りっていう言葉は悪いけど、故郷みたいな感じで帰っていったんだと思うよ。馬場さんは何かあった人間は絶対に許さないけど、猪木さんは全然気にしなかったもんね。これは俺の勝手な解釈だけど、14歳で船底に入って何十日もかけてブラジルに移民して、それからいろんなことがあったのを思ったら、日本に帰ってきてプロレスをやって、いろんな人といろんなことがあっただろうけど「どうってことねぇよ」っていう感じなのかなって。別に情が濃いとかいうわけではなく、テイクケアしてくれる感じじゃないんだけど、誰に対してもフラットな姿勢なんだよね。

 俺が最後のアメリカ修行から帰ってきた81年から延髄斬りとか卍固めを使い始めて、新日本のファンに「全日本の天龍が何で猪木の真似をしてるんだ!?」って言われたけど、猪木さん本人から何か言われたことはなかったよ。普通だったら、どこかで会った時に「お前、あんな下手な技を使うなよ」って言われても仕方ないけど、それもやっぱり我関せずというのか、意に介さないっていうのか、「そんなのちっちゃなことだよ」っていう感じだったのかな。

 延髄斬りはね、アメリカで本当にどうしていいかわからないで迷っていた時期に、新日本に行ったことがあるブラックジャック・マリガンに「日本で猪木がやっていたラウンドキックをやってみたらいい」って言われて、やり始めたんだよ。そうしたら急に猪木さんが身近に感じられて、コブラツイストとか卍固めとかをやれると思った自分がいて、日本に帰ってきた時に使い始めたら、全日本のファンが面白がって喜んで、新日本のファンが「全日本のクセに使いやがって!」って。ここでひとつ疑問があるんだけど、普通だったら馬場さんは「お前、猪木の真似はやめとけよ」って言うはずなんだけど、それもなかったから俺はラッキーだったよ。全日本のファンからも新日本のファンからも、どうあれ注目されるようになったんだからね。


ーーインタビューの続きは絶賛発売中のBUBKA2月号にて!


アントニオ猪木
1943年、神奈川県出身。1960年にブラジルで力道山にスカウトされ日本プロレスに入団。同年デビュー。アメリカ武者修行などを経て、東京プロレスを旗揚げ。その後日本プロレスに戻るも1972年に新日本プロレスを旗揚げし、数多くの試合、異種格闘技戦で活躍。国民的な人気を得る。1989年に参議院議員選挙で当選し、初の国会議員プロレスラーとして話題となった。1998年に現役引退。その後、新団体『IGF』の設立や映画・CM出演など多方面で活躍。2010年に日本人初の「WWE殿堂(ホール・オブ・フェーム)」に認定された。

天龍源一郎
1950年生まれ、福井県出身。1963年に大相撲入り。1976年のプロレス転向後は「天龍同盟」での軍団抗争や団体対抗戦で日本・海外のトップレスラーと激闘を繰り広げ、マット界に革命を起こし続ける。2015年の引退後もテレビなど各メディアで活躍中。