【BUBKA6月号】緊急対談 細田昌志×森合正範「“キックの鬼”沢村忠とは何者だったのか?」
「真空飛び膝蹴り」で日本中を熱狂させたキックボクシング界のスーパースター・沢村忠が3月26日に逝去した。当時の国民的英雄と言っても過言ではない存在にもかかわらず、その強さ、功績が語られることは少なく、それは逝去直後である今も変わらない。そこで今回、緊急対談として、昨年話題となった『沢村忠に真空を飛ばせた男:昭和のプロモーター・野口修 評伝』と『力石徹のモデルになった男 天才空手家 山崎照朝』の著者である細田昌志氏と森合正範氏を招き、謎多き英雄について語っていただいた。
写真提供/共同通信社
謎多き英雄
――細田さんは、沢村さんが病床に伏しているという情報を知っていたんですか?
細田 体調が悪いというのは聞いていました。(目黒藤本ジムの)藤本勲会長からも「沢村さんの体調はあまり良くない」と耳にしていたのですが、昨年藤本会長が他界されて一年後に沢村忠も…… 。拙著『沢村忠に真空を飛ばせた男:昭和のプロモーター・野口修 評伝』の唯一の心残りは、沢村さん本人から話を聞き出せなかったこと。柳澤健さんが『1976年のアントニオ猪木』を「完本」と謳って文庫化した際に、猪木さんのインタビューを収めたでしょう。同じように「文庫化するときは話を伺って完本に……」なんて思っていたんですけど。
森合 僕は、細田さんと違って事前情報を知らなかったので、本当にびっくりしました。あくまで私の視点としては、極真側から見た沢村さんであり、山崎さんから見た沢村さんだった。『力石徹のモデルになった男 天才空手家 山崎照朝』の取材を通じて、改めて沢村さんの凄さや強さを認識をしていた。 〝沢村に勝ったカンナイパイ〞、〝沢村に勝ったサマン〞という具合に、当時のキックを語るとき〝沢村〞は修飾語になるほどの影響力がありました。沢村忠が物差しであり、軸になっているんですよね。我々の本のどちらにも登場するレフェリーの(ウクリッド・)サラサスさんも彼の強さを評価している。沢村さんがいなかったら、ここまでキック界は隆盛していないと思います。
細田 沢村忠がいなかったら、確実に今のキックボクシングはなかった。「往年のローラーゲームのように一時的なものになっていたんじゃないかなあ」と思うことはあります。
森合 演出もあるけど……〝けど〞がついてなお沢村は強い。僕が取材をしていく中でも、沢村さんのことをくさすような人は一人もいなかった。
――一時代を築いたヒーローという点に鑑みれば、世間的にもっと評価が高くてもいいと思います。ところが、持ち上げられるどころか、今となってはほとんど語られることがありません。
森合 昔の専門誌『ゴング』を持参してきたのですが、 見出しが「沢村100連続KO目前」……まず、この時点でありえないわけじゃないですか。
細田 まあ、確かに。
森合 原稿を読むと、「さて沢村の100連続KO記録に対する評価だが、正直なところ賛否両論が激しく渦を巻いている」 と書いてあるんですよ(笑)。100連続KOに賛否両論があることに驚くし、このときにはすでに〝否〞があったという点も興味深い。それが当時の格闘技マスコミの見方だったと思います。
――緊急対談の続きは絶賛発売中のBUBKA6月号にて!
ほそだ・まさし
1971年岡山市生まれ。鳥取市で育つ。鳥取城北高校卒業。1998年からCS放送「サムライTV」の情報番組『格闘ジャングル』メインキャスターに就任。2000年からは放送作家としてのキャリアをスタート。歴史、芸能、格闘技に精通。著書に『坂本龍馬はいなかった』(彩図社・2012年『) ミュージシャンはなぜ糟糠の妻を捨てるのか』(イースト新書・2017年)。メールマガジン「水道橋博士のメルマ旬報」(博報堂ケトル)同人。
もりあい・まさのり1972年、横浜市生まれ。スポーツ新聞社を経て、2000年、中日新聞社に入社。東京中日スポーツでボクシング、ロンドン五輪を取材。中日スポーツで中日ドラゴンズを担当し、2015年から東京新聞運動部記者として、ボクシングとオリンピック競技を中心に取材活動をする。また、『ボクシング・マガジン』や『週刊プレイボーイ』にも寄稿している。
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