【BUBKA6月号】アイドルクリエイターズファイル#5 宮野弦士

楽曲派という言葉が死語になる前に伝えることがある!ということで始まった当連載。今回は、前回登場したヤマモトショウとタッグを組みフィロソフィーのダンスのほぼ全楽曲の作曲を手掛けた作曲家・宮野弦士が登場。膨大な音楽の素養を活かし、ジャンルの垣根を超えて名曲を生み出す彼に曲作りへの考え方を聞いた。拡大版の今回は、lyrical school のプロデューサー・キムヤスヒロ、トラックメイカー・ALI-KICKの2名も登場。ラップアイドルというシーンを世の中に打ち出し、名トラックの数々を作り続けている彼らがリリスクの制作の裏側を明かす。

シティポップMAMA

――専門学校の先生を通して加茂啓太郎さんと出会ったのが作曲家の道に進むきっかけということですが、それ以前にお仕事で音楽に関わることはあったのでしょうか。

宮野弦士 実質的にはフィロソフィーのダンスが初めての仕事だと重います。

――専門卒業後にいきなりプロの作曲家としてキャリアをスタートさせたというのがすごいですよね。

宮野 最初は実力の程度もわからないのでお試しだったと思うんです。初めてお会いした打ち合わせのときに「ナイル・ロジャースみたいな感じで作りたい」と言われて、そのワードが出てきた瞬間に「じつはナイル・ロジャースが一番好きなので、僕のための仕事だと思います」と返して(笑)。それでできたのが『すききらいアンチノミー』でした。

――結果、一発目でグループのコンセプトと宮野さんの作る音楽がハマり、その後、ほとんどの楽曲に関わることになりました。

宮野 パーマネントなソングライターとしてやっていくと決まってなかったと思うんですけど、当時は毎月新曲を披露するというお題目があったなかで、よくよく考えてみたらこういうタイプの曲を書けるソングライターってあまりいなくないかと(笑)。それで来月も、じゃあ来月も、とやっていたら結構書いていたという。今は離れてるんですけど、当時はありがたかったですね。

――宮野さんはマルチで楽器を演奏されますが、その下地はどのようにできていったのでしょうか。

宮野 それは両親の影響です。母親がキーボードで父親がギターなので、諸々の機材が結構な感じで家に揃っていて。幼少期はあまり友達もいなくて例えば外でサッカーしたりとかも全然なく、小さい頃からシンセがおもちゃで、KORGのTRITONでビートルズのコピーをして遊んでたんです。それが物足りなくなってくると親父のギターを手に取って。親父はハードロックが好きなので、ディープ・パープルの『スモーク・オン・ザ・ウォーター』とかレッド・ツェッペリンの『ハートブレイカー』『コミュニケイション・ブレイクダウン』とかを教えてくれて。小学生の頃から鍵盤とギターに夢中になってました。両方とも歴が20年近くになるんですよね。

――20代で楽器歴20年。リスナーとしてもおよそ20代らしからぬと言いますか。

宮野 僕が小学校に通っていた00年から06年って、めちゃくちゃJ‐POPが濃かった時期だと思うんですけど、全部すっ飛ばして親父のCD棚にあるものを聴いてました。ジャズとかフュージョンとかAORとかにも傾倒していたので、早い段階でエアプレイとかTOTOに行き着いていたんです。ハードロック的要素のある部分とアダルト・コンテンポラリー、ソウル・ミュージック、ディスコみたいなものの間にあるのがAORだったので、AORを起点にしてどっちにも手を伸ばしていました。


――インタビューの続きは絶賛発売中のBUBKA6月号にて!


宮野弦士
1994年生まれ、東京都出身の作曲家。2015年春に音楽専門学校を卒業し、音楽活動をスタートさせた。 1970、80年代の音楽を主なバックグラウンドとして、楽器演奏、作編曲、ミックス・マスタリングと複数の分野での制作を行う。