【BUBKA 3月号】吉田豪のBUBKA流スーパースター列伝 レジェンド漫画家編 vol.7 「1・2の三四郎」 小林まこと


俺はたぶんサボるタイプなんで(笑)
漫画の内容で悩んだことないんですよ


ベースを持った姿で登場してくれた今回のレジェンドは小林まこと先生。

『1・2の三四郎』で若い時にヒットし、その後も人気作を作り続けてきたが、本当にやりたいことは音楽だったのだとか。

苦悩し、締め切りを破り、そして再び漫画を描き始めた男に吉田豪が直撃した!


梶原一騎のパロディ


―小林まこと先生の仕事場は、噂通り完全に音楽スタジオになってるんですね(笑)。

小林 これでもだいぶシンプルにしたんだけど、前はドラムがあったりでもっとすごかったんですよ。ここでリハーサルやったりもして。金額的にも一番使ってるかもしれない。

―漫画の儲けを注ぎ込んでスタジオを作っちゃったっていう伝説は本当だった、と。

小林 ここは第二弾なんですよ。第一弾はマンションを改装して、そっちのほうが金がかかったかもしれない。20代半ばぐらいで。

―『1・2の三四郎』がヒットしたときですよね。当時どれくらいかけたんですか?

小林 防音の改装で1000万かかった。機材もなんだかんだで、当時アナログなんでミキサーにしても100万円単位なんですよ。

―ああ、いまみたいに簡単に自宅でレコーディングできる時代じゃないですもんね。

小林 そうそうそう、いまなら1万円ぐらいで買えるようなものが当時は100万したんだよね。計算するのも恐ろしい(笑)。あとノイズリダクションとかいうテープレコーダーのノイズをちょっと減らすだけの機械があるんですけど、それだけでも30万ぐらい。

―それでレコーディングしてたんですか?

小林 ん ? ……あんまりしてなかったかな(笑)。「さて、レコーディングやるぞ!」ってときに連載が始まっちゃったりして。

―実は、そもそも基本がバンドの人なんですよね。『1・2の三四郎』も、最初はバンド漫画として描き始めてたぐらいだから。

小林 ああ、よく知ってますね。そうなんですよ。高校生のバンドの漫画で持ち込んだら、誉められてね。「キャラクターが抜群にいいよ。ただ、バンドっていうのはなー。もっとオーソドックスにいこうよ」みたいなことを言われてデビュー作になったんですよ。

―その結果、『三四郎』が格闘技漫画になって。小林まこと先生がすごいのは、梶原一騎先生が一番怖い時代に、梶原作品のパロディを同じ雑誌でやっていたことなんですよ。

小林 ああ、怖いもの知らず、いま思うと。

―だって『愛と誠』の「きみのためなら死ねる」で知られる岩清水をネタにする時点で、まずハラハラするわけじゃないですか。

小林 俺はぜんぜんハラハラせずにふつうにやってたんですけど。周りはハラハラしてたのかな、1回ボツになったけどね(笑)。「梶原三騎」っていうキャラクター作って。そしたら担当が「さすがにこれはマズいよ」って言って、泣く泣く描き直したんだけど。


―― インタビューの続きは絶賛発売中のBUBKA 3月号にて!


小林まこと
1958年5月13日生まれ。新潟県出身。高校卒業後に上京、ギャグ要素も満載のプロレス漫画『1・2の三四郎』の連載を開始、ヒット作となる。その後は『What's Michael?』『柔道部物語』などを生み出し続けるも、14年に引退。ベーシストとして活動を始め3枚のアルバムをリリース。16年に『JJM 女子柔道部物語』で復帰した。