【BUBKA 4月号】天龍源一郎がレジェンドレスラーについて語る! ミスタープロレス交龍録 第6回 ジャンボ鶴田(前編)

天龍源一郎は、その40年間の“腹いっぱいのプロレス人生”で様々な名レスラーと出会い、闘い、交流した。

ジャイアント馬場とアントニオ猪木の2 人にピンフォールでの勝利を収めた唯一の日本人レスラーであり、ミスタープロレスとまで称された天龍。

そんな天龍だからこそ語れるレジェンドレスラーたちとの濃厚エピソードを大公開しよう!

写真/平工幸雄

一緒にプレスリーのコンサートにも最初の頃は銀座や赤坂によく行った

ジャイアント馬場さんの奥さんの元子さんに「今度、蔵前国技館で全日本プロレスの大会があるから観に来ない?」って言われて「プロレスに入る気持ちがあるんだから、1回ぐらい観ておくかな」と思って、初めて観に行った全日本の試合が1976年6月11日のテリー・ファンクvsジャンボ鶴田のNWA世界戦だったんだよね。

 2階席全部が超満員で、お客さんの熱気に溢れてて、高を括って観に行ったのが「プロレスってこんなにお客さんを集めるスポーツだったんだな」ってカルチャーショックを受けたよ。

 相撲で同期だった桜田(一男=ケンドー・ナガサキ=元立浪部屋の網走洋)とか、知っているサムソン・クツワダ(元朝日山部屋の二瀬海)とかが出てきて、ほんわかした気分で観ていたね。で、テリーとジャンボのNWA世界戦になったら、中央大学の応援団が太鼓鳴らして「鶴田、頑張れ!」って応援しているのを観た時に、相撲とは全然雰囲気が違う蔵前国技館にびっくりした。「こんなにみんなが一体になって、リングの中の2人を応援するのが許されるスポーツなんだな!」って、そこでもカルチャーショックを受けたよ。

 それに予備知識も何もなくて観たテリーvsジャンボが面白かった。「ああ、このスポーツもいいな」ってプロレス入りする気持ちがグッと固まったというのが正直なところだよ。

 ジャンボとの最初の思い出は1976年10月に全日本プロレスに入って巡業に合流した時。移動バスに乗ったんだけど「俺はどこに座ればいいの?」ってキョロキョロしていた時に「天龍選手、とりあえずこっちに座りなよ」って奥の席に座らせてくれたのがジャンボだったんだよ。他の人も「ここに座りなよ」って言ってくれてもよさそうなものなのに最初にジャンボだけが声を掛けてくれたんだよね。それで「ああ、人のいいアンチャンだな」って(笑)。

 ジャンボは中学生の時にサムソン・クツワダがいた朝日山部屋に入るとかいう話があったらしくて「相撲ってどうなの?」ってところからいろんな話になって「この人も相撲に入る予定だったんだ」って急に親しみを覚えたね。


――記事の続きは絶賛発売中のBUBKA 4月号にて!


天龍源一郎
1950年生まれ、福井県出身。1963年に大相撲入り。1976年のプロレス転向後は「天龍同盟」での軍団抗争や団体対抗戦で日本・海外のトップレスラーと激闘を繰り広げ、マット界に革命を起こし続ける。2015年の引退後もテレビなど各メディアで活躍中。

ジャンボ鶴田
1951年、山梨県出身。高校時代にバスケットボール選手として活躍した後、中央大学在学中にレスリングに転向。1972年にフリーとグレコの両方で全日本王者となり、ミュンヘン五輪に出場するなどの実績を残す。同年に全日本プロレスに入門。プロレスラーとしてジャンピングニーパッドやバックドロップを武器に活躍した。1999年に現役を引退。以前から筑波大学大学院体育研究科でコーチ学を学び、慶応大学などで講師を務めたが、引退後は米国ポートランド州立大学に客員研究員として留学。2000年に肝臓移植手術中に出血多量のため亡くなった。