【BUBKA 6月号】新日本プロレスがニューヨークの街で“世界一”になった日 武藤敬司 インタビュー
4月6日、マディソン・スクエア・ガーデンのリングに武藤敬司の「化身」であるグレート・ムタが復活試合を行い、膝の怪我でしばらくリングに上がれなかった彼を大歓声が迎えた。グレート・ムタはアメリカでなぜここまでの人気と信頼を獲得できたのだろうか? 帰国したばかりの武藤敬司に話を聞いてきた。
写真提供=平工幸雄
アメリカはバブってる
――今号は”平成最後のBUBKA”なので、プロレスコーナーも平成プロレスの象徴のような方に出ていただこうということで、武藤さんにご登場願いました!
武藤 へえ~、そうなんだ。
――やはり武藤さん自身も、平成は自分の時代だったなっていう自負はあるんじゃないですか?
武藤 そんな大それたことを自分から言うつもりはねえけど。「令和最高のレスラー」を目指すのもいいかな思ってるところなんだから(笑)。
――ここからが自分の時代だと(笑)。
武藤 少なからず、まだまだプロレスをやりたいってことで、ヒザに人工関節入れる手術もしたわけだしね。
――でも本当に、日本のプロレス界、とくに新日本プロレスは、90年に武藤さんが凱旋帰国したときから変わったな、と思うんですよ。おおまかに言うと、それまでの新日本は”猪木プロレス”で、それ以降は”武藤プロレス”という。
武藤 そうっすね。しかも並行してアメリカのスタイルもなんとなく変えた気がするんだよな。それまでアメリカで活躍した日本人っていうのは、やっぱり(タイガー)戸口さんとか、マサ(斎藤)さん、キラー・カーンさんとか、ちょっと厳ついヒールのイメージがあったけど、俺からだからね、変わったの。見栄えのする技で魅せるっていうのはさ。
――それまでの日本人レスラーは、いわゆる”スニーキースタイル”。ヒールとして、狡い日本人を演じていたわけですよね。
武藤 比較的そっちだったよな。マサさんなんかは本来、最高のレスリング技術を持ってるんだけど、あえてそれを見せずにズルい日本人に徹してたわけだよな。
――技はあまり使わずに、首を絞めるクロー攻撃ぐらいしかやらなかったり。
武藤 塩撒いたりとかさ。あとは80~90年代くらいまでのアメリカマットって、デカいヤツばっかりだったんだよ。でも、この前アメリカ行ってみたら、俺よりデカいレスラーほとんどいねぇもんな。
――確かに、WWEですら小型化が進んでますよね。AJスタイルズ、フィン・ベイラー、ダニエル・ブライアンとか、みんなジュニアヘビー級みたいな身体で。
武藤 でも、俺がいた頃のWCWなんて、俺が一番ちっちゃいレスラーだったからな。
――スーパーヘビー級中心だったアメリカマットを、グレート・ムタが細かい技術を使う日本式のプロレスに変えていったというか。
武藤 まあまあ、徐々にね。俺だって向こうに合わせながらだったから。やっぱり、郷に入ったら郷に従わないといけないわけだからさ。そこに馴染めなかったらハブかれて、需要もなくなるわけであってね。どこいったって必ずプロモーターというのがいて、そのプロモーターが抱いている期待の120パーセントをやってたから、食いっぱぐれなかったわけだから。
――インタビューの続きは絶賛発売中のBUBKA 6月号にて!
むとう・けいじ
1962年12月23日生まれ、山梨県出身。1984年に新日本プロレスに入門。二度の海外遠征を経験(88年に武藤敬司の「化身」であるグレート・ムタが登場)。帰国後、蝶野正洋、橋本真也と闘魂三銃士を結成。当時は「日本プロレスの至宝」と呼ばれ90年代を代表するトップレスラーとして活躍。現在は経営者としても活躍し、旗揚げしたWRESTLE-1の運営会社であるGENスポーツエンターテインメントの代表取締役会長でもある。
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