【BUBKA 9月号】髙嶋仁名誉監督 インタビュー 智辯和歌山高校野球部が日本でいちばん愛されている理由

「平成最強の野球部はどこか?」と聞かれて即答できる人は少ないと思うが、「平成で最も愛された野球部は?」と聞かれたら、「智辯和歌山高校野球部」と僕なら仁王立ちで答える。

多くの高校野球ファンにとって、胸に「智辯」と朱色で大きく書かれたあのユニフォームが聖地に現れた時、終盤のチャンスに『ジョックロック』が流れた時、自慢の打線が爆発した時、その時こそが「日本の8月」を感じる瞬間なのだ。

というわけで、今回は昨夏限りで同校の監督を勇退した髙嶋仁・名誉監督と、大の智辯和歌山ファンで知られる高校野球芸人・かみじょうたけしにインタビュー。

智辯和歌山の魅力に全力疾走で迫る!

部員2人からのスタート

――奈良の智辯学園で10年、智辯和歌山で38年。指導から離れた生活には慣れましたか。

髙嶋 いやあ、まだまだ。普段は講演をやったり、春夏の甲子園で解説とか、この夏も新聞で和歌山大会の評論をやったり……。試合を見てると、「何やっとるんや!もっとこうせえよ」って選手に言いたくなってしゃあない。

――現在の肩書は智辯和歌山高校野球部名誉監督。お孫さんも1年生に入ってきましたが、練習グラウンドを覗かれることは?

髙嶋 滅多にないですね。僕がうろうろしたら現場がやりにくいでしょうし、知った選手がようけおるから見とったら余計にいろいろ言いたくなる。でもね、甲子園には今も行きたい。ウズウズしてますよ。

――歴代最多の38回も出場して、まだ行きたいものですか。

髙嶋 そら行きたいですよ。監督時代は甲子園から戻った瞬間、行きたくなってましたから。今度の夏の甲子園も解説には行くので合間にコソッとベンチでも入れんかなと思とんです(笑)。

――今回は智辯和歌山特集。長く高校野球界をリードしてきた強さの秘訣に迫りたい、と。

髙嶋 それは簡単、監督が良かったから(笑)。ユニフォームを脱いで改めて思うのは、指導者の大きな仕事いうのはいかに選手をその気にさせるか。だから、そこがうまくいったんかなとは思います。いくら練習をやれやれと言っても、選手がいやいやでは身にもつかんし、結果も出ないんでね。

――智辯和歌山は髙嶋監督のスパルタ、しごきで鍛えられたイメージを持つ人もいると思います。

髙嶋 そら、厳しくやってきました。当時は、手も足も出てボールも飛んできたはず(笑)。でも、選手も甲子園に行きたい、もっと上手くなりたいいう気持ちでやってたからついてきてくれたはず。それにね、ウチは監督は怖くても先輩後輩の関係はいいチーム。そこのストレスはないから、うるさい監督はおるけど今日もグラウンドに行きたいな、という、その雰囲気はあったと思います。ここは学年10人のええところやったかな、と(現在は学年12人)。

――髙嶋さんが智辯和歌山に赴任したのは野球部が連盟登録した翌年の1980年。まさに1から作っていったわけですね。

髙嶋 奈良で3回甲子園に出てベスト4も経験。僕は張り切って来たんですけど、初日のグラウンドに現れた選手は新1年生の2人だけ。聞いてみたら「奈良からとんでもなく怖い監督がくる」と噂が流れて、上級生も含めみんな逃げてしまった、と。2人に頼んで10数人を呼び戻して、そこからのスタートです。


――インタビュ―の続きは絶賛発売中のBUBKA9月号にて!


たかしま・ひとし
1946年生まれ、長崎県出身。海星高校時代、外野手として2回の甲子園出場。日本体育大学野球部でキャプテンを務め、1970年に智辯学園(奈良)のコーチに就任。1972年に同校の監督になりセンバツベスト4などに導いた後、1980年からは智辯和歌山の監督になり、春夏通算三度の甲子園優勝を飾る。2018年夏限りで監督を勇退し、同校および智辯学園の名誉監督に就任。甲子園出場38回、甲子園通算68勝と2つの歴代最多記録を持ち、甲子園で最も勝利した監督として知られている。