【BUBKA6月号】天龍源一郎がレジェンドについて語るミスタープロレス交龍録 第20回「輪島大士」

天龍源一郎は、その40 年間の“腹いっぱいのプロレス人生”で様々な名レスラーと出会い、闘い、交流した。ジャイアント馬場とアントニオ猪木の2人にピンフォールでの勝利を収めた唯一の日本人レスラーであり、ミスタープロレスとまで称された天龍。そんな天龍だからこそ語れるレジェンドレスラーたちとの濃厚エピソードを大公開しよう!

写真/平工幸雄

輪島を天龍革命のターゲットにしたのはプロレスに転向した相撲取りのプライド

 輪島さんは花籠部屋に入ったけど、俺を二所ノ関部屋に入れた人が輪島さんとも交渉していて「輪島は高校を卒業したら大鵬がいる二所ノ関部屋に入る」っていうのが既成の事実だったんだけど、大に進学して、卒業後に花籠部屋に入ることが決まった時には大広間に集められて「お前ら、輪島と当たった時には絶対に負けんなよ。あの野郎、ウチに入るって言ったのに花籠部屋に行きやがって」って言われたのを憶えてるよ。その時に号令をかけた奴が一番最初に負けちゃったんだけどね(笑)。

 輪島さんと相撲時代に当たったのは74年1月場所3日目の1回だけだね。強い云々とか感じる暇もなく、あっと言う間に終わった。多分、2〜3秒……抵抗した覚えも何もないもん。パッと取られてサッと寄り切られたと思うよ。

 俺が相撲からプロレスに転向して「輪島さんがプロレスに来たら、こんな感じなのかな」って、漠然と思ったのは、1978年にサンフランシスコで輪島さんと同じように肩幅が広いエド・ウィスコスキーと対戦した時だったね。そのサンフランシコでは日大と花籠部屋で輪島さんの後輩だった石川孝志とタッグを組んで一緒に住んでいて、石川が「輪島さんに電話してみましょう!」って言って、場所中に国際電話したんだよ。当時はオペレーターがつなぐから、石川に「輪島さん、OKって言ってください」って言われた輪島さんは何もわからないままに「OK、OK」って言って、コレクトコールになって、輪島さん払いで1時間以上も長話したのを憶えてるよ(笑)。あの頃の国際電話代は高かったから、3万円ぐらい取られたんじゃないの?(笑)

 プロレスに来たのは8年後。86年の4月に日刊スポーツがスクープして騒然となったんだよね。石川と2人で「輪島さんが来たら、俺たちで守ってあげなきゃいけないね」って話していたよ。現役を退いてから5年経っていたけど、横綱まで行った人だから、肉体的なことは何も心配していなかったよ。

 輪島さんが入った頃、全日本プロレスの選手が「あとから入ってきた人間を輪島さんと呼ぶのは癪だし、呼び捨てにするには横綱だし」っていう感じで戸惑っているのを感じたよ。だから俺が「横綱!」って呼んで、輪島さんが「うん」って答えるのを見て、みんなも「横綱」って声を掛けるようになったんだよね。輪島さんはそんなに気難しい人じゃなくて、むしろ人恋しい性格だったから、みんなにスーッと溶け込んだのを憶えてるよ。

 輪島さんの故郷・七尾での日本デビュー戦(86年11月1日)は……まあ、あんなもんだよ。「あんなもんだよ」って言ったら身も蓋もないけど、相手がタイガー・ジェット・シンでよかった。あれがドリー・ファンク・ジュニアとか、ビル・ロビンソンが相手だったら酷評されていたと思うよ。でもね、あれだけプロレスが低迷していた時にスポーツ紙全紙が取り上げたっていうことは、輪島大士のプロレス転向は大きかったよ。


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輪島大士
1948年、石川県出身。1970年に大相撲に入門し、1973年の夏場所で全勝優勝して横綱に昇進するなどの活躍を見せる。得意の左下手投げとトレードマークの金色のまわしから「黄金の左」と呼ばれた。1981年に大相撲を引退し、1986年に全日本プロレスに入団。リング上での天龍との激しい激突は、ファンやプロレスラーに大きな衝撃を与えた。1988年にプロレスを引退。引退後はタレントとしてバラエティ番組などで活躍したが、2018年にガンのため亡くなった。

天龍源一郎

1950年生まれ、福井県出身。1963年に大相撲入り。1976年のプロレス転向後は「天龍同盟」での軍団抗争や団体対抗戦で日本・海外のトップレスラーと激闘を繰り広げ、マット界に革命を起こし続ける。2015年の引退後もテレビなど各メディアで活躍中。