【BUBKA9月号】天龍源一郎がレジェンドについて語るミスタープロレス交龍録 第22回「前田日明」

天龍源一郎は、その40 年間の“腹いっぱいのプロレス人生”で様々な名レスラーと出会い、闘い、交流した。ジャイアント馬場とアントニオ猪木の2 人にピンフォールでの勝利を収めた唯一の日本人レスラーであり、ミスタープロレスとまで称された天龍。そんな天龍だからこそ語れるレジェンドレスラーたちとの濃厚エピソードを大公開しよう!

写真(前田日明)/平工幸雄


 俺は40年に及ぶプロレス生活の中で伝説の世界王者のバディ・ロジャースからオカダ・カズチカまで、同じ時代にリングに上がって、あらゆるレスラーと対戦してきたけど、唯一、戦わないで終わったのが前田日明なんだよね。

 彼がラッシャー木村さんとか剛竜馬とかと旧UWFを旗揚げした頃(1984年4月)、若くて大きいし「新しい団体のエースらしいなあ」っていう印象を受けた一方で、テレビ局も付いてないし、プロレス業界の外にいた人(浦田昇氏)が社長だって聞いて「大丈夫なの?」って思ったことを憶えてるよ。

 前田との間に接点が生まれそうになったのは85年の暮れだったかな。UWFに関しては「あとで猪木さんが行くって言ってたのに行かなかった」っていう噂を聞いたこともあったし、いろいろあったみたいで……キャピトル東急ホテル(現ザ・キャピトルホテル東急)で馬場さんに「実は前田と髙田(延彦)が来るんだよ」って言われたことがあるんだよ。で、俺は「いいじゃないですか、全日本が充実しますよ!」って言ったんだけど「でも、前田が全員を引き取ってくれって言ってるから、そこがちょっと何だよな」って話を濁されて。結局、話が決裂して、新日本に上がるようになったんだよね。

 彼らが新日本のリングで存在感を示す一方では、対戦相手としてサンドバッグにされた越中詩郎が俄然、光ってた。全日本出身の越中と名勝負を生むことができたんだったら、俺は天龍源一郎のスタイル、前田日明は前田日明のスタイルでやって、それはそれで結構行けたかもしれないなと思うところはあったよ。

 新日本でも存在感を発揮した前田だけど、長州(力)の顔面を背後から蹴って(87年11月19日、後楽園ホール)、新日本を解雇されるという事件があったよね。俺は偶然に当たったんだと思うよ。名人でも、あんなに上手いこと綺麗に当てられないよ。そんな芸当ができるのは、頭の上にリンゴを置いて矢で射抜くウィリアム・テルぐらいなもんだよ。

 まあ、あの頃はハードな蹴りっていうのが前田の売りだったから、妥協できない部分はあったと思うけどね。当時の俺は輪島大士さんの顔面を靴紐の痕がつくほどレスリング・シューズでガンガン蹴っていて、それをテレビで観て「これはヤバい。UWFより凄い」って危機感を持ったらしい。前田や髙田が考えそうなことだよね。やっぱり「自分たちがどう見られているのか?」っていうのを意識していたんだと思うよ。それはUWFというより、根っこの新日本プロレス出身者の習性かもしれないね。全日本プロレスの練習生ってダラッとしているのが多かったけど(笑)、新日本の若手はいつもいいカッコしていたからね。だって全日本の若手はジャージ姿で平気でそこらをウロウロしていたけど、新日本の若手はジーンズ穿いて、ピシッとTシャツを着ていたじゃない。そうやって私生活で「自分はどう見られているのか?」の延長線上のリングの上だったと思うよ。


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前田日明
1959年、大阪府出身。1978年に新日本プロレスでデビュー。1984年の第一次UWFの立ち上げに参加した後、1985年に新日本プロレスに復帰するが、試合中に長州力の顔面を蹴ったことで解雇される。1988年に第2次UWFを旗揚げし、熱狂的な人気を集めた。第2次UWF解散後はリングスを立ち上げ、多くの海外強豪選手を発掘した。1999年のレスリングの英雄アレクサンダー・カレリン戦を最後に引退。現在はリングスCEO、格闘技大会THE OUTSIDERのプロデューサーを務めている。

天龍源一郎
1950年生まれ、福井県出身。1963年に大相撲入り。1976年のプロレス転向後は「天龍同盟」での軍団抗争や団体対抗戦で日本・海外のトップレスラーと激闘を繰り広げ、マット界に革命を起こし続ける。2015年の引退後もテレビなど各メディアで活躍中。