【BUBKA11月号】天龍源一郎がレジェンドについて語るミスタープロレス交龍録 第24回「橋本真也」

天龍源一郎は、その40年間の“腹いっぱいのプロレス人生”で様々な名レスラーと出会い、闘い、交流した。ジャイアント馬場とアントニオ猪木の2 人にピンフォールでの勝利を収めた唯一の日本人レスラーであり、ミスタープロレスとまで称された天龍。そんな天龍だからこそ語れるレジェンドレスラーたちとの濃厚エピソードを大公開しよう!

写真(橋本真也)/平工幸雄 


 先日、蝶野正洋と対談したんだけど、57歳になるって聞いてビックリしたよ。武藤敬司は蝶野の1歳上で三沢光晴と同い年だから今年で59。そう考えると、時間が経つのはあっという間だね。振り返ると、全日本プロレスで下の世代で向かってきたのは三沢タイガーマスクで、新日本プロレスと戦うようになってから向かってきた最初の下の世代が、闘魂三銃士の中で一番若い橋本真也だった。

 もう亡くなって15年も経つから言うけど、俺が新日本に乗り込んでいった時に現場責任者の長州力から「源ちゃん、橋本とガンガンやってよ」って言われたんだよ。「橋本を何とかしてくれよ」という言い方ではなかったけど、当時の橋本は低迷していて、武藤や蝶野に差を付けられていたから、長州も現場監督として橋本を何とか伸ばさなきゃいけないっていう考えがあったんだと思う。橋本自身も自分の状況をわかっていたから、遠慮会釈なしにガッと向かってきたよ。

 あの頃の俺は体力に自信があったから、蹴りだろうが何だろうが、すべて受け止めてやるという気構えがあったし、今でこそチョップの応酬とか蹴りの応酬っていうワンツーの攻防がよくあるけど、その初っ端は橋本のローキックと俺のチョップのやり合いだよ。橋本が蹴りをやれば「ワーッ!」と沸いて、俺がチョップを返すと、また「ワーッ!」って沸いたのを憶えてるよ。

 橋本との初めての一騎打ちはWARの1周年記念大会の日本武道館(93年6月17日)だったんだけど、確かに蹴りはエグかった。バシッと来るキック力は強かったね。そして退くことを知らない男だったよ。俺にしてもリングに上がったら相撲取りと同じで、年齢とかランク付けとかをどうたらこうたら思わないから、同じ目線で20代の橋本と向き合った自負があるよ。

 その2ヵ月後に新日本の『G1クライマックス』のスペシャルマッチ(8月8日、両国国技館)で再戦して2連勝したんだけど、翌年の2月の3度目の対決(94年2月17日、両国国技館)で俺が負けたんだよね。「こいつはプロレスが好きなんだろうな」って思う俺がいて、勝ったり負けたりなんて、その上でついてくるものだから、どっちに転んでも何も思わなかった。客が満足する試合っていうのが俺の第一のコンセプトだから、勝敗なんて、そのあとについてくることっていう感じなんだよね。

 怒らせようが何だろうが、彼が持っているものをすべて出せるようにするっていうのが、対戦相手の橋本に対する俺の最大のリスペクトだったよ。何もさせないで俺が勝っても、何もしないで俺が負けても、それは俺の中では良しとしなかった。自分も相手も、己を存分に発揮することによって「戦った!」っていう達成感が生まれるんだよ。


――インタビューの続きは絶賛発売中のBUBKA11月号にて!


橋本真也
1965年、岐阜県出身。1984年に新日本プロレスでデビュー。武藤敬司、蝶野正洋との3人で“闘魂三銃士”としてブレイクした。“破壊王”の異名をとって新日のエースとして活躍し、小川直也との死闘も大きな話題を呼んだ。2000年に新日本プロレスを離れて、自身の団体ZERO-ONEを設立。全日本プロレスとの対抗戦も行なった。2004年にZERO-ONEは活動を停止し、橋本は負傷した右肩の手術などを行い復帰を目指していたが、2005年7月11日に脳幹出血により40歳の若さで急逝した。


天龍源一郎
1950年生まれ、福井県出身。1963年に大相撲入り。1976年のプロレス転向後は「天龍同盟」での軍団抗争や団体対抗戦で日本・海外のトップレスラーと激闘を繰り広げ、マット界に革命を起こし続ける。2015年の引退後もテレビなど各メディアで活躍中。