【BUBKA12月号】宮戸優光スペシャルインタビュー 「アントニオ猪木の全盛期」

少年時代、ブラウン管に映るアントニオ猪木の一挙手一投足に魅了され、自らもプロレスラーへの道を歩んだ宮戸優光。Uインターでは常識を覆す手法で理想のプロレスを追い求め続けた彼の瞳に、〝燃える闘魂〞はどのように映っていたのか。猪木の日プロ追放と新日の旗揚げ、アリとの対決などからその全盛期を紐解いていく。

写真提供=平工幸雄

闘魂の誕生

――9月30日でアントニオ猪木さんがデビュー60周年を迎えたわけですけど、プロレスファンでも猪木さんの現役時代、とくに全盛期を知ってる人がさすがに少なくなってきたと思うんですよ。なので今回は、少年時代からファンとして全盛期の猪木さんを観てきて、プロになってからはその素顔も知る宮戸さんに、猪木さんの本当の凄さを語っていただきたいんです。

宮戸 なるほど。ただ、そういう意味で言うと、まず「猪木さんの全盛期とはいつだったのか?」という話からしなければいけないと思うんですよ。新日本プロレスを旗揚げする前、日本プロレス時代にジャイアント馬場さんとのBI砲でインタータッグを獲られたり、ワールドリーグ戦に優勝した頃を、猪木さんの全盛期という方もいますけど、僕はその頃、まだ小学校低学年ですから、なんとなくテレビで観ていた記憶はありますが、正直、お話しできるほどではないんです。

――69年12月にドリー・ファンク・ジュニアとNWA世界戦で60分フルタイムを闘った頃が猪木さんの全盛期と言うオールドファンもいますよね。

宮戸 実際、北沢幹之(魁勝司)さんとか、「新日本時代より、日本プロレス時代の猪木さんの方が強かった」と言われる先輩方もいらっしゃいます。そういう意味で、レスラーの全盛期というのは、誰が何を基準に見るのかで違ってくるのでまた難しいんだけど。僕個人で言えば、やはり新日本プロレスのテレビ中継が始まってからの猪木さんに夢中になったし、あの時代の猪木さんの凄さであれば、語ることができるかな、と。

――日本プロレス時代には、明らかに馬場さんの方が格上というイメージでしたけど、それを新日本旗揚げ後、70年代には逆転していったわけですしね。

宮戸 やはり、日プロ時代と新日本になってからの違いというのは、レスリングの話だけにとどまらないと思うんですよ。日プロ時代の猪木さん、馬場さんというのは、お二人とも「所属選手」だったわけじゃないですか。会社からお給料をもらっていた、社会に置き換えればいわばサラリーマン的な立場だった。ところが猪木さんは、71年に日プロ内部を改革しようとして動いたことが、結局クーデターであるとされて、追放されてしまったわけです。

――そして四面楚歌の中、72年3月に新日本を旗揚げするわけですよね。

宮戸 だから追放された悔しさと怒り、そして自分自身がやらなければ今後はプロレスをやれないという切迫した状況によって、まさに闘魂に火がついた。それが新日本を旗揚げしたあとの猪木さんだったんじゃないかな、と。だからもし、追放されずに日本プロレスの傘の下、社会的にみればサラリーマンと言われる状況の中であのまま続けていたら、その後のアントニオ猪木さんが生まれたかというと、そうじゃないと思うんですよ。


――インタビューの続きは絶賛発売中のBUBKA12月号にて!


みやと・ゆうこう
1963年6月4日生まれ、神奈川県出身。1985年に第1次UWFにおいて星名治戦でデビュー。1991年、UWFインターナショナルの旗揚げに参加。「1億円トーナメント」などの画期的なプロモーションに加え、ゲーリー・オブライトら外国人レスラーの発掘でも活躍した「Uインターの頭脳」。1995年に引退後はスポーツジム・U.W.F.スネークピットジャパン(現C.A.C.C.スネークピットジャパン)を設立し、代表を務めるなど後進の育成にも力を入れている。