【BUBKA12月号】天龍源一郎がレジェンドについて語る ミスタープロレス交龍録 第25回「藤波辰爾」

天龍源一郎は、その40年間の“腹いっぱいのプロレス人生”で様々な名レスラーと出会い、闘い、交流した。ジャイアント馬場とアントニオ猪木の2人にピンフォールでの勝利を収めた唯一の日本人レスラーであり、ミスタープロレスとまで称された天龍。そんな天龍だからこそ語れるレジェンドレスラーたちとの濃厚エピソードを大公開しよう!

写真(天龍源一郎)/熊谷貫


 藤波辰爾というプロレスラーは、ホントにプロレスと真正面から向き合って、ずっと今まで来たっていう感じの人。馬場さんが旗揚げした全日本プロレスも、猪木さんが旗揚げした新日本プロレスも「俺の創った団体にわざわざ入ってきた若い人間だから」って甘やかす傾向があったと思うけど、藤波選手は猛者がゴロゴロいて選手が余っているような日本プロレスに中学を卒業してポッと入ったから育ち方が違うよ。穏やかな感じの人だけど、内面では反骨心とか「負けてなるか!」っていう勝気なところがあって、リングの中では一筋縄ではいかなかったよ。何もわからない16歳で日プロに入って、何もわからないまま猪木さんのケツにくっついて新日本の旗揚げに参加して、そこから今の地位を築き上げた本物の叩き上げだね。プロレスと真摯に向き合わなかったら挫折していたと思うよ。

 藤波選手とは、現役時代にはほとんど接する機会がなかったんだけど、最近は日本プロレス殿堂会のミーティングとかで会うことが多くて、プライベートでもよく話をするようになったんだけど、ジャンボ(鶴田)にしても、長州(力)選手とか藤原(喜明)さんにしても、話が脱線するのに、藤波さんだけはずっと真面目にプロレスの話をしている印象があるね。

 ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンでWWWF(現WWE)のジュニア・ヘビー級のチャンピオンとなってアメリカ遠征から帰ってきてパッとスポットライトを浴びた新日本の藤波っていう存在は、形は違うけど大相撲から転向してスポットライトを浴びた全日本の天龍も意識したよ。まあキャリアは向こうの方が結構あったから「当然、巧いよなあ」っていう俺の中に諦めがあったんだけどね(苦笑)。だからテレビで観ていて藤波選手が技を時々失敗したら「ほうら、みたか!」って喜んでいたよ(笑)。

 共通点としては、同じノースカロライナで修行していることかな。俺は80年の夏から81年春までいたんだけど、藤波選手は76年の春から77年の冬までいたって言ってたね。だから俺がノースカロライナに行った時にファンのオネエチャンに「フジナミ知ってる?」って結構聞かれたよ。「そういえばノースカロライナで藤波さんの彼女に会いましたよ」って言ったらスルーされちゃったけどね(笑)。トミー・ヤングっていう現地の古株のレフェリーから「体は大きくなかったけど、ソツなく試合をこなすグッドレスラーだった」って聞いたのを憶えてるよ。


――インタビューの続きは絶賛発売中のBUBKA12月号にて!


天龍源一郎
1950年生まれ、福井県出身。1963年に大相撲入り。1976年のプロレス転向後は「天龍同盟」での軍団抗争や団体対抗戦で日本・海外のトップレスラーと激闘を繰り広げ、マット界に革命を起こし続ける。2015年の引退後もテレビなど各メディアで活躍中。