【BUBKA1月号】天龍源一郎がレジェンドについて語るミスタープロレス交龍録 第26回「ハルク・ホーガン」

天龍源一郎は、その40年間の“腹いっぱいのプロレス人生”で様々な名レスラーと出会い、闘い、交流した。ジャイアント馬場とアントニオ猪木の2人にピンフォールでの勝利を収めた唯一の日本人レスラーであり、ミスタープロレスとまで称された天龍。そんな天龍だからこそ語れるレジェンドレスラーたちとの濃厚エピソードを大公開しよう!

写真(ハルク・ホーガン)/平工幸雄

 

 俺は40年に及ぶプロレス人生の中で、その時々のトップレスラーとことごとく対戦してきたっていう自負があるけど、ハルク・ホーガンもそのひとり。日本で彼と戦ったレスラーは新日本プロレス以外にあまりいないよね。それも猪木さんとか藤波選手とかのトップだけでしょ? その中に俺も入れたということは誇らしいよ。俺はWWF(現・WWE)でトップを張っていた全盛期のホーガンと一戦交えているからね。

 彼に初めて会ったのは、俺がフロリダにいた1978年秋から79年春にかけてだと思うよ。タンパの控室で俺のマネージャーをやっていたタイガー服部さんに「今度、全日本プロレスに行くやつだから」って紹介されたんだよ。ホーガンはプロレスラーになる前はロックバンドをやっていたんだけど、ホーガンのバンド仲間が服部さんのアパートの下の階に住んでいて、よく遊びに来ていたらしいよ。「デカいから、全日本にはちょうどいいな」って思って「いい仕事してくれよ」って握手したのを憶えてるんだけど、テリー・ファンクに「今のお前だったら全日本に行っても大変だから、ニューヨークに行け」ってアドバイスをもらって、全日本に行かずにWWFで成功したんだから、人間の運なんてわからないね。

 再会したのはフロリダから12〜13年経った91年1月のフロリダ州マイアミで開催された『ロイヤル・ランブル』(1月16日)。その年の3月30日にSWSが初めて東京ドーム興行をやることになって、メインイベントは俺とホーガンが組んでザ・ロード・ウォリアーズとのタッグマッチに決定していたから、日本用のプロモ撮影やミーティングのために行ったんだけど、久々に会った時に俺は貫禄負けしていたね(苦笑)。スターと言われる人が持っている要素を彼はもう備えていたからね。醸し出す雰囲気とか、周りのレスラーたちが彼をリスペクトしているのを見ると、やっぱり貫禄負けしていたよ。実際、デカかった。当時の俺はレスラー人生の中でも最高潮の130キロあったけど、ホーガンは2メートルを超える身長で140キロあったからね。

 プロレスラーって、見下すか、仲間と思うか、リスペクトするかの3つしかないんだけど、多分、ホーガンはWWFと業務提携しているSWSという団体のトップとして俺を認めて接してくれていたっていう印象があるよ。

 ホーガンと組んでウォリアーズとやった試合は、細かいことはあんまり憶えてないんだよ。それは違和感なく試合をやれたからだと思うんだよね。あの東京ドームは「ホーガンと組めば、メガネスーパーがSWSとしてプロレス界に進出してきて、超満員にできたっていう自慢ができるな」っていうのが第一だった。


ーーインタビューの続きは絶賛発売中のBUBKA1月号にて!


ハルク・ホーガン
1953年、アメリカ・フロリダ州タンパ出身。プロレスラーを目指して、ヒロ・マツダのトレーニングを受け、1977年8月、覆面レスラー、スーパー・デストロイヤーとしてプロレスデビュー。その後アメリカ国内を転戦し実績を積み、1979年には、ハルク・ホーガンとしてWWFに登場。そこでの活躍が見込まれ名を上げると、1980年には新日本プロレスのリングへ。アントニオ猪木との一騎打ちや必殺技・アックスボンバーを武器に知名度を得る。その後AWA、SWS、WWEなどの各団体のリングにあがり活躍。2020年にはnWoとしてWWEの殿堂入りを果たした。


天龍源一郎

1950年生まれ、福井県出身。1963年に大相撲入り。1976年のプロレス転向後は「天龍同盟」での軍団抗争や団体対抗戦で日本・海外のトップレスラーと激闘を繰り広げ、マット界に革命を起こし続ける。2015年の引退後もテレビなど各メディアで活躍中。