【BUBKA3月号】世界のレフェリー・島田裕二が語る「格闘技界の栄枯盛衰」

マレンコ道場にはじまり、藤原組、リングス、PRIDEと時代を代表するプロレス、格闘技団体を渡り歩き、数多の歴史的名勝負を裁いてきた世界のレフェリー・島田裕二。何もかもがデタラメだった90年代、藤原喜朗、前田日明、鈴木みのるといった風雲児達がリングを席巻していたころ、その華やかな舞台の裏側では何が起こっていたのか。彼らを至近距離で見続けた男が今、赤裸々に語る。

写真提供=平工幸雄


きっかけはカール・ゴッチ

――PRIDEのレフェリーとして知られる島田さんですけど、今はここ、コンパス幼保園の園長(キャプテン)なんですよね?

島田 そうですね。3年半前から始めて、保育園事業を2店舗経営させていただいています。

――すごいじゃないですか!

島田 がんばってるでしょ? ここでは英語教育やスポーツにも力を入れているし、グローバルな人材に育ってもらえたらなと思ってやってますよ。

――そもそもレフェリーから保育事業に転身したきっかけは?

島田 PRIDEが終わったあと、次のDREAMも2012年ぐらいに終わって。TBSの大晦日格闘技番組もなくなったとき、「この業界やべえな」「食っていけないな」と思ったことだね。それで若い頃、フロリダのマレンコ道場に行ったときに学んだ英語力を活かして、たまに海外でレフェリーやりながら、英語の先生になろうと思ったの。小学校でも英語が必修化するってことでね。

――最初は非常勤みたいな感じで先生になろう、と。

島田 そうしたら国の基準で、学校の先生は非常勤もアルバイト禁止ってことがわかって。先生やりながら週末は海外でレフェリーやろうと思ってたのに、ダメになった。そうなると、たかだか15〜16万の給料じゃ、食っていけないので。じゃあ、学童とか保育がいいなっていうことで、保育士の資格も取ってね。俺、ちゃんと取ったんだよ?

――保育士資格試験って、合格率が低くて難しいんじゃなかったでしたっけ?

島田 そうだよ! すごいでしょ? 10年前からセカンドキャリアを考えて、しっかり勉強したんだから。

――島田さんといえば、テキトーなパブリックイメージがありますけど、実像はだいぶ違うんですね(笑)。ちゃんとしてるじゃないですか。

島田 やっぱり家族がいるから、食わしていかなきゃいけないしね。君も知ってのとおり、俺のこれまでの人生のように、太鼓持ちみたいなことしながら、どこかの会社で働くっていう選択肢もあったんだけど。

――以前は、調子良く各団体を転々とするヤドカリ人生でしたよね(笑)。

島田 ただ、いつまでも誰かの世話になるのもなんだし。自分でやりたいことと、サポートしてくれる企業がマッチしたので、やることにしたんですよ。子供も好きだし、人様のお役に立てることだしね。

――いや〜、ちょっと島田さんのこと見直しましたよ。

島田 そうでしょ? これが今の俺の姿だから!


ーーインタビューの続きは絶賛発売中のBUBKA3月号にて!


しまだ・ゆうじ
1966年11月24日生まれ、広島県出身。大学卒業後、マレンコ道場を経て藤原組、格闘探偵団バトラーツ、リングス、PRIDEなど、数々の団体でレフェリーを務める。「髙田延彦対ヒクソン・グレイシー」、「ヴァンダレイ・シウバ対桜庭和志」など歴史的一戦も裁き、“世界のレフェリー”としての地位を確立。その後は児童の保育と教育に興味を持ち、保育士免許を取得。現在はコンパス幼保園の園長として、教育支援活動を積極的に行っている。