【BUBKA3月号】天龍源一郎が レジェンドについて語る ミスタープロレス交龍録 第28回「アントニオ猪木(後編)」
天龍源一郎は、その40年間の“腹いっぱいのプロレス人生”で様々な名レスラーと出会い、闘い、交流した。ジャイアント馬場とアントニオ猪木の2人にピンフォールでの勝利を収めた唯一の日本人レスラーであり、ミスタープロレスとまで称された天龍。そんな天龍だからこそ語れるレジェンドレスラーたちとの濃厚エピソードを大公開しよう!
写真(アントニオ猪木)/平工幸雄
猪木さんと戦うことになった発端は、WARの旗揚げ2連戦を終えた後(1992年7月15日、後楽園ホール)に「長州力が尊敬している人とも一度、肌を合わせてみたい」って俺が言ったことなんだけど、猪木さんが「いいよ、別に。何でそんな試合をやらなきゃいけないんだよ」って言えばそれで終わった話なんだよ。だから、よくぞ重い腰を上げて、乗っかってくれたと思う。当時の猪木さんは参議院議員になって忙しい時だったし、今さらながら「アントニオ猪木はやっぱり凄いな」っていう感覚ですよ。
あの時、猪木さんが応じてくれたことで、天龍源一郎が一歩階段を上ることができたというのはありましたよ。
猪木さんとタッグで初めて肌を合わせた時(93年5月3日、福岡ドーム=天龍&長州力vs猪木&藤波辰爾)、猪木さんの絡みつく卍固めを味わったね。スラッとしていて手足が長いから、まとわりつく感じで、ホントに気持ちよく入るよ。
卍固めはオクトパス・ホールドとも呼ばれるけど、まさにタコが獲物を掴むようにシュッと絶妙なタイミングで入る。他の選手の卍固めは、体は乗っかっていても、首をロックする足が滑って外れたりするけど、猪木さんはガチッと決まるね。猪木さんのふくらはぎがチョークになって首にガッチリ入ったからね。あんな完璧な卍固めはないよ。
タッグ対決の後の94年1月4日に東京ドームで猪木さんが「一騎打ちをやってもいいよ」って、俺をチョイスしてくれたことは、俺にとっては名誉なことですよ。でも俺は馬場さんの弟子だし、福岡ドームのタッグマッチでちょっと当たっただけで、俺がどんな性格なのか、俺がどんなことをやるかわからないんだから、今でも一騎打ちをやってくれたことは不思議なんだよね。
猪木さんと戦う時の気持ちは「無」だったね。髙田延彦やオカダ・カズチカとやった時は、彼らが入場してくる姿をリングの上から見ていて「カッコいいなあ」って思ったけど、猪木さんの入場を待ち受けている時は本当に無。「今、ここでアントニオ猪木という人と戦うんだ」というだけで、カッコいいとかって思う余裕はなかったよ。
俺は猪木さんの弟子ではないし、主従関係はなかったから、長州選手や藤波選手、闘魂三銃士(武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也)のように気後れすることはなかったけど、試合前に猪木さんが「格闘技戦ルールだ」って言い出して、あれはちょっと面倒臭かったな(笑)。当然、俺はプロレス・ルールを主張して平行線になって、社長の坂口(征二)さんに下駄を預けて、最終的にプロレス・ルールに落ち着いたけど、試合前から猪木さんは仕掛けてきたということですよ。
ーーインタビューの続きは絶賛発売中のBUBKA3月号にて!
アントニオ猪木
1943年、神奈川県出身。1960年にブラジルで力道山にスカウトされ日本プロレスに入団。同年デビュー。アメリカ武者修行などを経て、東京プロレスを旗揚げ。その後日本プロレスに戻るも1972年に新日本プロレスを旗揚げし、数多くの試合、異種格闘技戦で活躍。国民的な人気を得る。1989年に参議院議員選挙で当選し、初の国会議員プロレスラーとして話題となった。1998年に現役引退。その後、新団体『IGF』の設立や映画・CM出演など多方面で活躍。2010年に日本人初の「WWE殿堂(ホール・オブ・フェーム)」に認定された。
天龍源一郎
1950年生まれ、福井県出身。1963年に大相撲入り。1976年のプロレス転向後は「天龍同盟」での軍団抗争や団体対抗戦で日本・海外のトップレスラーと激闘を繰り広げ、マット界に革命を起こし続ける。2015年の引退後もテレビなど各メディアで活躍中。
0コメント