【BUBKA4月号】なんてったってキヨハラ 第7回「未来は僕等の手の中」

 寝る前のチンチン……じゃなくてスマホいじりと真夜中のエロ動画課金と年賀状。多くの社会人が今年こそやめたいと思っちゃいるけどやめられないトップ3だ。俺は会社を退職して義理チョコがもらえなくなったのを機にイジけて年賀状もやめた。まあ古い友人にはLINEグループ、仕事関係にはメールで新年の挨拶を簡単に返し、生きるのが少しラクになった気がする。だが、1987年(昭和62年)正月の桑田真澄は違った。

 なんと担当記者、評論家の自宅に年賀状を送ったのである。入団間もない4月には「挑戦状」と題した手紙を記者に送りつけ、契約更改の記者会見はナチュラルに無視したマスコミ嫌いの男が「プロ野球一年生には厳しい世界であり、野球の厳しさを身をもって教えられたシーズンでした……」といたって謙虚な新年の挨拶だった。前年12月に米アリゾナ教育リーグから帰国した桑田は、正月休みも返上して日本球界ではまだ珍しかったウェイトトレーニングに取り組み、栄養学、心理学、解剖学、運動生理学、メンタルトレーニングに関する本を買い込み独学で勉強を始めた。さらに「シーズンを通して戦える体力をつける。自分を表に出して明るく振る舞う。新球をマスターする」という3つの目標を立てる。1月7日からは同僚の水野雄仁と石川県和倉で山ごもりにも出かけた。って一泊2万8000円もする超高級旅館に泊まって山ごもりと言えるのか……なんて突っ込まれながらも、18歳は本気で変わろうとしていたのだ。ルーキーイヤーをわずか2勝で終えた桑田真澄の2年目の逆襲はすでに始まっていたのである。

 そんな昭和スポ根アニメの主人公のようなシリアスなオフを過ごすライバルとは対照的に、あらゆる新人記録を塗り替え一躍球界のニュースターとなった清原和博はウハウハのオフを過ごす。ハワイV旅行の両親へのおみやげはカルティエのペアウォッチを選び、審査員として中森明菜に満点をつけた紅白歌合戦にも大阪からふたりを招待。元旦の朝は東京のホテルで親子水入らずのおとそをやり祝った。当初の予定では東京タワーにのぼり初日の出を見たかったが、現場の警備が間に合わずパニックになる恐れがあったのでかなわず。1月2日には球団恒例の狭山不動尊初詣で鐘をつき、西武園遊園地のサイン会に5000人ものファンを集めた。


ーーインタビューの続きは絶賛発売中のBUBKA4月号にて!


なかみぞ・やすたか(プロ野球死亡遊戯)
1979年埼玉県生まれ。大阪芸術大学映像学科卒。ライター兼デザイナー。2010年10月より開設したブログ『プロ野球死亡遊戯』は現役選手の間でも話題に。『文春野球コラムペナントレース2017』では巨人担当として初代日本一に輝いた。主な著書に『プロ野球死亡遊戯』(文春文庫)、『ボス、俺を使ってくれないか?』(白泉社)、『原辰徳に憧れて-ビッグベイビーズのタツノリ30年愛-』(白夜書房)、『令和の巨人軍』(新潮新書)などがある。