【BUBKA4月号】天龍源一郎がレジェンドについて語るミスタープロレス交龍録 第29回「ランディ・サべージ」
天龍源一郎は、その40年間の“腹いっぱいのプロレス人生”で様々な名レスラーと出会い、闘い、交流した。ジャイアント馬場とアントニオ猪木の2人にピンフォールでの勝利を収めた唯一の日本人レスラーであり、ミスタープロレスとまで称された天龍。そんな天龍だからこそ語れるレジェンドレスラーたちとの濃厚エピソードを大公開しよう!
写真(ランディ・サべージ)/平工幸雄
外国人レスラーの中で、純粋に対戦相手という意味で思い出深いのはランディ・サベージだね。彼との『日米レスリング・サミット』(1990年4月13日、東京ドーム)での一騎打ちは、間違いなく俺のベストバウトのひとつだよ。
初めて対戦する前の知識としては、WWF(現WWE)で世界チャンピオンにもなったトップレスラーだから名前はインプットされていたよ。ただ、試合を観たこともないから『日米レスリング・サミット』の重要なポジションでの試合が決まった時には「どうするんだよ?」って戸惑ったよね。ビデオも全然観ていなかったし、ホントにあの日のリングがぶっつけ本番だよ。サベージのマネージャーのシェリー・マーテルがあんなに俺のことを挑発して、舐めてくるっていうのも全然想像していなかったしね。だから「俺は俺でいくしかないな」って腹を括ったっていうのが正直なところだよ。
俺はサベージが実際にどんなレスラーなのかも把握してなかったし、もちろん人間性も知らなかったけど、マイナーリーグとはいえ、プロの野球選手だったというのを聞いていて、そういうところはリスペクトしていたので、他のレスラーとやるのとはちょっと心構えが違っていたかもしれないね。それと同時に、この時に初めてアメリカに何回も行って培ったものがパッと閃いて、知らず知らずのうちに試合に出たんだと思うんだよ。微妙な間(ま)とかね。
サベージはさすがにWWFのトップだっただけあって、絶妙な間の取り方をする。彼の試合は技の品評会ではないんだよ。プロレスの良し悪しは、タイミングと間で決まる。攻める時と引く時の絶妙なるバランスだよ。間に関しては、俺自身にアメリカン・プロレスのベースがあったから、それによって2人がうまく噛み合う試合になったと思うんだよね。プロレスだけじゃなくて、落語も、演劇でもそうだけど、間というのはエンターテインメントの命綱だよ。
東京ドームっていう大きな会場だから、サベージはわかりやすいプロレスを心掛けたと思うよ。そこが彼の大会場に慣れている凄さだね。彼は初めての日本のリングだったのに、あの東京ドームのお客さんを自分の間、リズムで惹きつけたよね。あの試合は、まずサベージの類稀なるエンターテインメント性というのがあって、それに俺が引きずられたって感じかな。絶妙な間のWWFのプロレスを会得したランディ・サベージと、WWFで客いじりに長けているシェリー・マーテルだからこそ、成り立った試合だと思うんだよ。
シェリーも巧いよ。試合にちょっかいを出すタイミングが絶妙なんだよね。下手な奴がやると、試合そのものを壊しちゃうからね。で、シェリーがちょっかいを出したら、徳光(和夫)さんが怒って本部席から立ち上がって……あれが一番目立ったよ(笑)。あれでお客がワーッと乗っかったもんね。あの試合は、その場にいた全員が役者だったよ。リング周りにいた人間全員が盛り上げて成立させた試合だったと思うよ。
ーーインタビューの続きは絶賛発売中のBUBKA4月号にて!
ランディ・サべージ
1952年、アメリカ、オハイオ州コロンバス出身。マイナーリーグでキャッチャーとして選手生活を送るなか、1973年のオフシーズンにプロレスラーとしてデビュー。NWA傘下テリトリーで活動し、1977年にランディ・サべージのリングネームを用いる。各団体を渡り歩いたのち1988年にはWWF世界ヘビー級王座を獲得しトップスターとなる。その後移籍したWCWでは、世界ヘビー級王座獲得、nWo結成など華々しい活躍で、ハルク・ホーガン、リック・フレアーらとWCWの隆盛に貢献した。2011年、運転中の心臓発作が原因で亡くなる。58歳という若さだった。天龍源一郎
1950年生まれ、福井県出身。1963年に大相撲入り。1976年のプロレス転向後は「天龍同盟」での軍団抗争や団体対抗戦で日本・海外のトップレスラーと激闘を繰り広げ、マット界に革命を起こし続ける。2015年の引退後もテレビなど各メディアで活躍中。
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