【BUBKA5月号】天龍源一郎が レジェンドについて語る ミスタープロレス交龍録 第30回「アブドーラ・ザ・ブッチャー」
天龍源一郎は、その40年間の“腹いっぱいのプロレス人生”で様々な名レスラーと出会い、闘い、交流した。ジャイアント馬場とアントニオ猪木の2人にピンフォールでの勝利を収めた唯一の日本人レスラーであり、ミスタープロレスとまで称された天龍。そんな天龍だからこそ語れるレジェンドレスラーたちとの濃厚エピソードを大公開しよう!
写真(アブドーラ・ザ・ブッチャー)/平工幸雄
アブドーラ・ザ・ブッチャーは、俺が相撲から全日本プロレスに入って、リングから入団挨拶するために最初に巡業についたシリーズに参加していたんだよ。まだ俺は髷をつけたままで、挨拶以外は本部席で試合を観ていたんだけど、ブッチャーが試合の途中で俺を威嚇するフリをしたんだよね。俺はプロレスがわかってないから応戦するわけでもなく「何で、俺のところに来るんだよ?」って感じでいたら、ブッチャーは馬場さんに「俺がガッといったら、天龍はビビッて腰が引けてたよ」って自慢気に言ったらしいんだよね。「何言ってんだ、こいつ!?」って思ったのが、俺のブッチャーの第一印象。
あと思い出すのは、1980年春に3度目のアメリカ修行でジョージアにいた時に、ブッカーのオレイ・アンダーソンに仕事を干されちゃって、ブッチャーに借金しようと思ったことだね。ブッチャーはジョージア州アトランタに住んでいて、テレビ撮りの会場で何回か会ったことがあって、自宅の電話番号を教えてもらっていたんだよ。それで2回ぐらい電話したんだけど、繋がらなかった。もし借金していたら「俺はアメリカで食えなかった天龍に金を貸してやった」っていう自慢話が一つ増えていたと思うから、繋がらなくてよかったよ(笑)。
ブッチャーとリングの上で初めて顔を合わせたのは、テキサス州アマリロでの修行を終えて帰国した77年暮れの『世界オープン・タッグ選手権』の公式戦(12月7日、福井市体育館)。ロッキー羽田と組んでブッチャー、ザ・シーク組とやったんだけど、俺にとってはプロレスラーになって初めての故郷での試合だった。で、場外でブッチャーとシークにいいようにやられて引きずり回されていたら「負けるな、天龍!」「天龍、いけ!」っていう大声が聞こえて、誰かと思ってパッと見たら、プロレス転向を反対していたウチの親父だったよ(笑)。
対戦相手としてはやりづらかったね。ブッチャーとかシークはキャラクターを発揮するために自分のパターンを絶対に崩さない。馬場さんとかドリー、テリー、ジャンボとかっていうクラスじゃないと攻防のあるプロレスの試合にはならなかったね。一方的に自分のパターンに持ち込んで、俺やロッキーの技なんか受けない。だからブッチャーに好きなようにやられて終わったと思うよ。
ブッチャーとの初めてのシングルはサンフランシスコ、フロリダ、ジョージアでの2度目のアメリカ修行から帰ってきた79年冬(11月5日、串間市体育館)だったと思うけど、多分3分ぐらいで負けてるでしょ(実際には4分42秒)。あのシリーズにはブッチャーの子分のビッグ・バッド・オーっていう巨漢の黒人選手もいて、渕(正信)に「天龍さん、修行から帰ってくると、いつもブッチャーとかオーとかにばっかり当てられて、大変ですね」って言われたのを憶えてるんだよ。俺自身も、自分が出来ないことは棚に上げて「何で、こんなどうしようもない奴らと当てるんだよ」って、ちょっと馬場さんを逆恨みしたこともあったな(苦笑)。
――インタビューの続きは絶賛発売中のBUBKA5月号にて!
アブドーラ・ザ・ブッチャー
1941年(または1936年説もあり) 、カナダ・オンタリオ州ウィンザー出身。1961年にジャック・ブリットンにスカウトされデビュー。NWAを主戦場として活躍。1970年に初来日。日本プロレスではジャイアント馬場と名勝負を繰り広げ、1972年には全日本プロレスに参戦して、以降は悪役のトップレスラーとしてジャイアント馬場、ジャンボ鶴田と抗争を繰り広げた。1981年には新日本プロレスに移籍。アントニオ猪木、ハルク・ホーガンらと対戦する。2011年にはWWE殿堂に迎えられ、2019年には日本で引退セレモニーが行われた。天龍源一郎
1950年生まれ、福井県出身。1963年に大相撲入り。1976年のプロレス転向後は「天龍同盟」での軍団抗争や団体対抗戦で日本・海外のトップレスラーと激闘を繰り広げ、マット界に革命を起こし続ける。2015年の引退後もテレビなど各メディアで活躍中。
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