【BUBKA 11月号】 天龍源一郎がレジェンドレスラーについて語る新連載! ミスタープロレス交龍録 第一回 「ジャイアント馬場」

天龍源一郎は、その40 年間の“腹いっぱいのプロレス人生”で様々な名レスラーと出会い、闘い、交流した。ジャイアント馬場とアントニオ猪木の2 人にピンフォールでの勝利を収めた唯一の日本人レスラーであり、ミスタープロレスとまで称された天龍。そんな天龍だからこそ語れるレジェンドレスラーたちとの濃厚エピソードを大公開しよう!


馬場さんには三番手の位置をもらったが最初はその期待に応えられなかった……

 連載第1回は、やっぱりジャイアント馬場さんでしょう。馬場さんと初めて会ったのは1976年の5月。その1年前に二所ノ関部屋の相続を巡る分裂騒動があって、俺は一度、部屋を飛び出したんだけど、日本相撲協会の裁定で部屋に戻されて居場所がなかったから、居心地がいいところに行きたいっていう気持ちが強かった。そんな時に馬場さんのブレーンの筑波大学の森岡理右先生に「だったら、まだ若いんだからプロレスをやってみたらいい」って誘われたんだよ。森岡先生は教授になる前は相撲記者で、大鵬さんと仲が良かったんですよ。

 馬場さんは72年10月に全日本プロレスを立ち上げたけど、日本プロレスから来た人たちが大勢を占めていて、生え抜きはジャンボ鶴田、若手の大仁田厚、渕正信、ハル薗田しかいなかったから、そこに俺をスカウトして「鶴田がいて、天龍がいて」っていう形にして早く日プロ色を排除したかったんだと思うんだよ。9月場所に勝ち越して相撲を廃業して、全日本に10月15日に入団したんだけど、2週間後の10月30日にアメリカ修行に連れていかれたのは、半年でモノになったジャンボのように俺のことも1日も早く成長させたかったんだろうね。

 馬場さんの第一印象というのは〝我が強い人〞。アメリカ修行に行く前の俺はリキアパートに住んでいて、どこに行く時も馬場さんが「乗ってけよ」ってキャデラックの助手席に乗せてくれたんだけど、リキアパートの前は車幅が狭いんだよ。で、ちょうど向こうから国産車が来たことがあって、馬場さんが少し端に寄せればスーッとすれ違うことができるんだけど、馬場さんは葉巻をくわえたままバックするわけでもなく全然動かないんだよね。時間にしたら40秒ぐらいだったと思うけど、相手がバックして、馬場さんはスーッと発進して。相撲の横綱でも車を寄せるのに、馬場さんは動かないから「この人、凄いな。我が強いな」って思ったね。当時、馬場さんは38歳だから「巨人軍の馬場正平からプロレスに入ってニューヨークでトップを取ったジャイアント馬場だよ」っていう強烈な自意識があったのかもしれないね。


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天龍源一郎=1950年生まれ、福井県出身。1963年に大相撲入り。1976年のプロレス転向後は「天龍同盟」での軍団抗争や団体対抗戦で日本・海外のトップレスラーと激闘を繰り広げ、マット界に革命を起こし続ける。2015年の引退後もテレビなど各メディアで活躍中。