【BUBKA 12月号】天龍源一郎がレジェンドレスラーについて語る ミスタープロレス交龍録 第二回 「ジャイアント馬場(後編)」

天龍源一郎は、その40年間の“腹いっぱいのプロレス人生”で様々な名レスラーと出会い、闘い、交流した。

ジャイアント馬場とアントニオ猪木の2人にピンフォールでの勝利を収めた唯一の日本人レスラーであり、ミスタープロレスとまで称された天龍。そんな天龍だからこそ語れるレジェンドレスラーたちとの濃厚エピソードを大公開しよう!

写真/平工幸雄

「天龍にだったら負けてもいいかな」

あの時、そんな馬場さんがいたのかも

 馬場さんとの関係が縮まったのは、1985年に長州力選手がジャパン・プロレスとして全日本に上がるようになって、彼とガンガンやるようになってからですね。馬場さんが経営者として「こいつに任せれば大丈夫かな」と思ってくれたのかなって思いますよ。

 馬場さんには「プロレスはかくあるべき」っていう教科書のようなものがあって、それをジャンボ鶴田選手が継承したんだけど、馬場さんにしてみたらジャンボというフィルターを通して見る天龍源一郎は不器用で映えなかったんだと思うんだよね。でも「タイガーマスクとかニュースターがドンドン出てきている新日本プロレスに食われる!」っていう危機感を持っていた馬場さんが長州を迎え入れた時にたまたま俺がいて、流すことなく真正面からぶつかって、全日本プロレスの新しいスタイルを醸し出しているっていうのを感じてくれたんじゃないかなと思うんですよ。「これが全日本のファンへの返礼の意味での試合だ」って馬場さんが合点してくれたところから、俺と馬場さんの気持ちが合ったというところかな。長州が乗り込んで来た時、俺に「全日本プロレスが新日本プロレスの下に見られたくない」っていう愛社精神が物凄くあったのも確かだよ。

 87年春に長州たちが新日本に戻った時に「僕と阿修羅・原とで好きなことをやっていいですか?」って言ったら馬場さんが「好きなようにやれよ」ってOKしてくれて天龍革命がスタートしたというのは、馬場、鶴田、輪島大士っていう昔ながらのアットホーム的な路線も残したいけれども刺激的なカードも出したいっていう欲が出たんだろうね。要するに全日本を見に来たら、全部が見られる『明るく楽しく激しいプロレス』でありたかったということだと思いますよ。

 シリーズが終わってファイトマネーを貰った後にキャピトル東急(ザ・キャピトルホテル東急)に行くと「まあ、座れよ」って、ポツンポツンといろんな話をしてくれて、俺も私利私欲なしに「こうしたらいいんじゃないですか」って、会社のことを話すようになりましたね。85年にUWFが揉めた時、馬場さんと話していて「今度、前田日明とか髙田延彦がウチに来るんだよ」って打ち明けてくれたことも憶えてますよ。結局、馬場さんは「前田と髙田以外は要らない」ってことで、前田と髙田は全員を引き取ってくれる新日本に戻ったんだけどね。


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天龍源一郎=1950年生まれ、福井県出身。1963年に大相撲入り。1976年のプロレス転向後は「天龍同盟」での軍団抗争や団体対抗戦で日本・海外のトップレスラーと激闘を繰り広げ、マット界に革命を起こし続ける。2015年の引退後もテレビなど各メディアで活躍中。