【BUBKA 3月号】吉田豪のレジェンド漫画家編 BUBKA流スーパースター列伝vol.19 『トイレット博士』とりいかずよし

教育上よくないっていろいろ言われて、ある意味では「やった!」と思った

『週刊少年ジャンプ』で連載した、ウンコがテーマの破天荒なギャグ漫画『トイレット博士』で大ヒットを飛ばした、とりいかずよし。

現在は大学で若者たちを指導している、とりいに『少年ジャンプ』を躍進させた『トイレット博士』のことはもちろん、デビュー以前のスタジオ・ゼロ~赤塚不二夫のフジオ・プロダクション時代のことまで、吉田豪が直撃インタビュー!

赤塚不二夫には許容量があった

――とりい先生は赤塚不二夫先生のブレーンでもあったわけですけど、同じくブレーンだった長谷邦夫さんが最近亡くなりましたね。

とりい そうね、でも長谷さんとは一番長いあいだ会ってなかったから。だって赤塚不二夫の葬儀のときにも来てなかったんですよ。

――もともと完全に右腕と言っていいぐらいだった人が赤塚先生と決別したんですよね。

とりい ね、来てるかなと思ったら来てなかった。決別組の人は何人かいたけど、来てたんですよ。もうあいつは許さないって言ってた人も来てましたけど、長谷さんだけは来てなかった。いろんな噂は聞きましたけどね。

――かなり遅くまで離れなかった人ではあるけれども、だからこそいろいろあるはずで。

とりい そうね、長年やってたからいろいろあれやこれやって問題点が絶対あるんでね。あいつは内緒でこういうことやってるとか、よからぬ噂もいっぱいあったんだけど。だから30~40年会ってなかった。その前に高井(研一郎)さんが亡くなって。ある意味、先生が一番若かったのかな。実際に自身がほとんど亡くなってるのと同じ状態になったのが53~54歳で、意識不明が長かったから。

――トキワ荘組は基本、早死にですよね。

とりい 一番元気なのは安孫子(素雄)さんだよね。トキワ荘だと女性の水野英子さんは死なないけど、あとは全滅じゃないですか?

――あ、つのだじろうさんは元気でした。

とりい そうそう、だからみんなで言ってたの、嫌われ者、世にはばかるって(笑)。

――赤塚先生と仲が悪かったらしいですね。

とりい ええ、悪かった。赤塚先生は許容量があるというか、「あいつはああいう性格だから」って、なんかあると呼ぶんですよ。

――仲が悪いのに(笑)。

とりい ええ。で、一緒に飲みに行くんです。ちょうど佐藤慶っていう俳優が来てて、「ねえ赤塚氏、紹介してよ」って言うの。こいつに紹介してもまたなんか問題起こすんじゃないかと思ったんだけど、あんまり言うから一応紹介して、別のとこでふたりで話してたけど、20分ぐらいしたらもうケンカが始まって、「ああ、やっぱり!」って。『少年ジャンプ』のパーティーの帰りに新宿でみんなで飲んでて、「つのださんが来るらしいよ」って聞いたらみんな帰っちゃった(笑)。

――うわー(笑)。


――インタビューの続きは絶賛発売中のBUBKA3月号にて!


とりい かずよし
1946年11月12日生まれ。愛知県出身。アニメーション・漫画の制作会社のスタジオ・ゼロ、赤塚不二夫のフジオ・プロダクションなどを経て、フジオ・プロダクション在籍中に漫画家デビュー。1969年から『週刊少年ジャンプ』に掲載したギャグ漫画『トイレット博士』で大ヒットを飛ばす。その他の作品は『せんせい』『うわさの天海』『くたばれ!とうちゃん』『ロボッ太くん』など。現在は愛知淑徳大学で教鞭をとり、未来の漫画家たちを育てている。