【BUBKA 5月号】天龍源一郎がレジェンドレスラーについて語る! ミスタープロレス交龍録 第7回 ジャンボ鶴田(後編)
天龍源一郎は、その40年間の“腹いっぱいのプロレス人生”で様々な名レスラーと出会い、闘い、交流した。
ジャイアント馬場とアントニオ猪木の2人にピンフォールでの勝利を収めた唯一の日本人レスラーであり、ミスタープロレスとまで称された天龍。
そんな天龍だからこそ語れるレジェンドレスラーたちとの濃厚エピソードを大公開しよう!
写真/平工幸雄
今の俺がこんなにも五体不満足なのはジャンボの技を食らうだけ食らった結果
よく俺は「ジャンボ鶴田と相容れなくなったのは、86年6月に高松で鶴龍コンビとしてロード・ウォリアーズと対戦した時、ジャンボが”ほらほら、いつまでも寝てないで起きて!”って、負けた俺の髪の毛を引っ張って起こした時だ」って話をするよね。俺も当時はトップクラスになったという妙なプライドがあったからカチンと来たんだと思うんだよね。あそこが俺の句読点だったね。
それで87年6月にレボリューションを始めるんだけど、「全日本のプロレスはワルツだ」って言っていた長州が去った後に、相も変わらずまったりした全日本プロレスだったから「俺が相撲から転向してやりたかったのは、こんなプロレスじゃない!」っていう気持ちが強くなったんだよ。「長州がいた頃のプロレスがやりたい」っていう渇望があったね。
最初は輪島(大士)さんとの戦いがヒートアップして、スポーツ新聞やプロレス専門誌が書き立ててくれた。これは俺の想像でしかないんだけど、そこでジャンボに「全日本のエースは俺なのに。そうはいかないっていうのを見せてやろう!」っていう気持ちが芽生えたんだと思うんだよ。それまでずっと全日本を引っ張ってきた彼のプライドが許さなかったんだと思うよ。
彼には「源ちゃん、すぐにムキになって」っていうのが常にあったけど、俺には「自分が熱くならなくて、高いお金を払ってきてくれるお客を熱狂させられるか」っていうのがあったから、そういうジャンボが嫌だったんだよ。だから張り手をかましたり、喉元チョップを盛んにやったよ。
ムキになったジャンボがニーパットを外してジャンピング・ニーをかましてくると凄いダメージがあったけど「よーし、この野郎!」っていう気持ちがあったね。本気のジャンボはやっぱりシビアだったよ。今の俺がこんなにも五体不満足なのは、ジャンボ鶴田の技を食らうだけ食らった結果だよ。頸椎……首系の後遺症は全部ジャンボ鶴田だよ。
今にして思うと、ジャンボが振り向いて、真正面から向き合うことによってレボリューションを続けられたし、ジャンボとの戦いは飽きなかったね。長州とは戦ってて楽しかったけどね、ジャンボの時は「負けたくない」「負けられない」っていう気持ちが凄く強かった。
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天龍源一郎
1950年生まれ、福井県出身。1963年に大相撲入り。1976年のプロレス転向後は「天龍同盟」での軍団抗争や団体対抗戦で日本・海外のトップレスラーと激闘を繰り広げ、マット界に革命を起こし続ける。2015年の引退後もテレビなど各メディアで活躍中。
ジャンボ鶴田
1951年、山梨県出身。高校時代にバスケットボール選手として活躍した後、中央大学在学中にレスリングに転向。1972年にフリーとグレコの両方で全日本王者となり、ミュンヘン五輪に出場するなどの実績を残す。同年に全日本プロレスに入門。プロレスラーとしてジャンピングニーパットやバックドロップを武器に活躍した。1999年に現役を引退。以前から筑波大学大学院体育研究科でコーチ学を学び、慶応大学などで講師を務めたが、引退後は米国ポートランド大学で客員研究員として研究に取り組んだ。2000年に肝臓移植手術中に出血多量のため亡くなった。
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