【BUBKA 6月号】天龍源一郎がレジェンドレスラーについて語る! ミスタープロレス交龍録 第8回 『ザ・デストロイヤー』

天龍源一郎は、その40年間の“腹いっぱいのプロレス人生”で様々な名レスラーと出会い、闘い、交流した。

ジャイアント馬場とアントニオ猪木の2人にピンフォールでの勝利を収めた唯一の日本人レスラーであり、ミスタープロレスとまで称された天龍。そんな天龍だからこそ語れるレジェンドレスラーたちとの濃厚エピソードを大公開しよう!

写真/平工幸雄 

「何も出来ないよ、こいつ!」とタッチ

初めて対戦した時の一言に頭に来たね

 ザ・デストロイヤーの訃報に接した時はね、88歳を過ぎて、大往生だったんだろうなと思いましたよ。長男のカート・ベイヤーは、俺の退団後に全日本プロレスでプロレスラーになったことがあるんだけど、それ以前にも会場によく来ていたし、知り合いのチャック・ウィルソン(スポーツ・インストラクター、外国人タレントの先駆け)が経営していたクラークハッチジムでも会っていて、年代が近いこともあって馴染みがあったんです。彼の「自宅で子供たち、妻に囲まれながら平穏に去っていきました」というコメントを聞いて、感慨深いものがありましたよ。

 これだけ活躍して、日本から旭日双光章を授与されて……語弊があるかもしれないけど、最後は家族に看取られたことを考えれば、幸せなプロレスラー人生だったんじゃないかなと思いますよ。俺がプロレスに入った頃は全盛期を過ぎた晩年のデストロイヤーだったけど、亡くなったことがあんなに大きくマスコミに取り上げられて、いろんな人がコメントしているのを目の当たりにすると「ああ、やっぱり偉大だったんだな」って、認識を新たにさせられたという感じですね。

 初めて会ったのは1976年10月に相撲からプロレスに転向してすぐ。全日本入団会見をやって、巡業に合流した時に移動バスの中でいつも馬場さんとポーカーをやっている外国人のおっさんがいて、それがデストロイヤーでしたね。「このオッサン、ガタイはいいけど、何やっている会社の人なのかな?」って不思議でしたよ。当時40代半ばだったと思うけど、俺は26歳だったから、凄くオッサンに見えたんだよね。で、それがデストロイヤーだって知った時には、子供の頃にテレビで観て、遠藤幸吉や力道山をやっつける外国人レスラーのエースっていう印象を持っていたデストロイヤーとあまりにもギャップがあり過ぎて、馴染めなかったよ(苦笑)。マスク姿と素顔が結びつかなかったんだよね。

 で、俺は10月の終わりにテキサス州アマリロへ修行に行って、翌年6月に日本でデビューしたんだけど、タッグマッチで初めてデストロイヤーと対戦した時に「何も出来ないよ、こいつ!」って言ってパートナーにタッチしたから、凄く頭に来たのを憶えてますよ。実際、俺は出来なかったんだけど「何言ってんだ、この野郎。出来るわけねぇだろう!」って開き直っていましたよ、あの頃は。


――インタビュ―の続きは絶賛発売中のBUBKA 6月号にて!


ザ・デストロイヤー
1930年、アメリカ・ニューヨーク州出身。1954年に素顔でプロレスデビュー。1962年より白い覆面のマスクマン「ザ・デストロイヤー」として活躍し、同年にWWA世界ヘビー級王座を獲得した。日本には力道山に招かれて1963年に初来日。力道山が亡くなった後は全日本プロレスにも参戦した。日本ではテレビのバラエティ番組でも活躍。引退後はレスリングの普及に務めて、社会活動も熱心に行ない、2017年に旭日双光章を受賞。今年の3月7日にアメリカの自宅で亡くなった。