【BUBKA 7月号】田村潔司 インタビュー「総合格闘技とプロレス2つの戦場で闘い続けた孤高の30年」

Uインターと新日本の対抗戦の全盛期に、総合格闘技のリングの上でプロレスと己の人生を証明した“Uの頑固者”。その後リングス、PRIDEへと辿ったキャリアでも真剣勝負を求道し続けた。令和元年5月21日。1989 年にデビューした男の格闘人生に、新時代最初の、そして30回目の春が訪れた。

写真提供=平工幸雄

プロレスから総合格闘技へ

――田村さん、今月でちょうどデビュー30周年ですよね。

田村 あっ、そうだね。デビュー戦は(89年)5月21日だから。

――30年やってるってすごいですね。

田村 すごくないよ。「もう30年か、早いな」とは思うけど、年数なんて黙ってりゃいくから。

――田村さんはある意味、一番いい時に入ってるんじゃないですか。大ブームを起こしていたUWFでデビューして、2000年代前半のPRIDEブームも経験しているわけですから。

田村 良かったのかどうなのか、何が正解かはよくわからないけど。プロレスから格闘技への端境期だったからね。いろいろ大変な時期ですよ。髙田(延彦)さんがヒクソン(・グレイシー)とやったときなんかもそうだと思うけど、初めて何かをやるときっていうのは、とてつもないプレッシャーになるから。

―― 髙田さんが97年10月11日の『PRIDE・1』でヒクソンとやったのは、トップ中のトップのレスラーが初めてリアルファイトの総合格闘技に挑んだ試合ですもんね。

田村 あの時、髙田さんはヒクソンに負けて、ボロクソ言われたじゃないですか。その重圧っていうのは、もう僕なんかでは計り知れない。プロレスラーとしてあそこまでの地位を積み重ねてきたのに、あの1試合で貯金してたものがすべてゼロになったというか、マイナスまでいってた感じだからね。あれはちょっと可哀想であり、でも、誰かがやらなきゃいけないことだったので。ああやって、髙田さんが一発目をやったというのは、今思うとすごいことだなって。

――プロレスと総合格闘技って、似て非なるものであり、いわば髙田さんの総合格闘技デビュー戦だったわけですもんね。それが、総合格闘技の最強と言われたヒクソンに負けただけで、それまでのプロレスでの地位まで失いかけたという。

田村 やっぱりプロレスをやる心構えと、格闘技の試合をやる心構えと緊張感は違うと思うんで。そこは味わった人にしかわからない。髙田さんはすごい重圧だったと思いますね。

――あの頃までは、新日本やUWFのプロレスと総合格闘技が同じようなものとして認識されてましたもんね。

田村 そうそう。でも、実際はそうじゃないっていう。

――いま、新日本プロレスのオカダ・カズチカに「UFCに出て、プロレスラーの強さを証明しろ」って言う人は誰もいないでしょうけど。当時はいましたからね。「橋本真也ならK ー1でも勝てる」みたいに言う人が。

田村 プロレスラーに幻想があったからね。

――橋本さんがすごいのは、当時から「俺の蹴りはKー1では当たらん!」って断言してたことですけど(笑)。

田村 正直な人なんだろうね(笑)。


――インタビュ―の続きは絶賛発売中のBUBKA 7月号にて!


たむら・きよし
1969年12月17日生まれ、岡山県出身。1988年に第2次UWFに入団。翌年の鈴木実(現・みのる)戦でデビュー。その後UWFインターナショナルに移籍。95年にはK-1のリングに上がり、パトリック・スミスと対戦。96年にはリングスに移籍し、02年にはPRIDEに参戦するなど、総合格闘技で活躍した「孤高の天才」。そして2000年に総合格闘技ジム・U-FILE CAMPを設立し、自ら代表をつとめる。