【BUBKA 8月号】天龍源一郎がレジェンドレスラーについて語る! ミスタープロレス交龍録 第10回 スタン・ハンセン

天龍源一郎は、その40 年間の“腹いっぱいのプロレス人生”で様々な名レスラーと出会い、闘い、交流した。ジャイアント馬場とアントニオ猪木の2人にピンフォールでの勝利を収めた唯一の日本人レスラーであり、ミスタープロレスとまで称された天龍。そんな天龍だからこそ語れるレジェンドレスラーたちとの濃厚エピソードを大公開しよう!

写真/平工幸雄 

スタンの車でジョージアをサーキット

同じアパートメントに住んでご馳走も

 1978年、2度目のアメリカ修行に出た俺はサンフランシスコ、フロリダを経て、79 年の4月にはジョージアに転戦したんだけど、そこで出会ったのがスタン・ハンセン。新日本プロレスのシリーズを終えて6月ぐらいにジョージアに来たんじゃないかな。ジョージアのレスラーが泊るアパートメントの1階に俺が住んでいて、2階にスタンが入った時に「ああ、こいつが新日本で活躍しているスタン・ハンセンか!」って。

 スタンはベビーフェースのトップで入ってきて、すぐにトミー・リッチとタッグ・チャンピオンになったよ。俺も日本人なんだけど中途半端な扱いだからベビーフェース。2人ともベビーフェースだった(苦笑)。スタンのベビーフェース?チョーク攻撃とかをやらないだけで、あとは日本でやっているような試合のままで何も変わらないよ。

 話すようになったきっかけは……最初は俺の方が「新日本のトップ外国人のハンセン」っていう感じで構えていたんだけど、アパートメントのプールで顔を合わせるようになって、自然に喋るようになったと思うんだよね。確か最初「どこの所属だ?」って聞かれたから「馬場さんのところだ」って言ったら「俺は馬場さんのところに最初に行ったけど、うまくいかなくて新日本に行ったんだ」ってところから始まって、ジャンボ鶴田っていう共通する話題もあったね。スタンは新人時代にアマリロでジャンボと過ごしていたから「ジャンボは何でも上手にこなしていた」っていう言い方をしていたよ。猪木さんのことを聞いたら「猪木は物凄くレスリングが巧い」って。

 当時、スタンはルイジアナに住んでいて、ピックアップトラックでジョージアに単身赴任で来ていたんだけど、その隣に乗せてもらってサーキットもしたね。あとは俺の部屋に招待してカレーライスを作ってご馳走したこともあったよ。その時、部屋の明かりが裸電球ひとつだったから「この部屋は薄暗いと思わないか?」って言いたかったんだけど、単語が浮かばなくてダーク・ライト……俺としては"ダークなライト"っていう言い方をしたんだけど、そうしたら「そんな英語はないぜ!」って、20分ぐらい笑っていたね。スタンは日本人のブロークンなイングリッシュに慣れているからコミュニケーションはOKだったよ(笑)。


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天龍源一郎
1950年生まれ、福井県出身。1963年に大相撲入り。1976年のプロレス転向後は「天龍同盟」での軍団抗争や団体対抗戦で日本・海外のトップレスラーと激闘を繰り広げ、マット界に革命を起こし続ける。2015年の引退後もテレビなど各メディアで活躍中。

スタン・ハンセン

1949年、アメリカ・テキサス州出身。フットボール選手を経て、1973年にプロレスデビューを果たす。1975年に全日本プロレスに参戦。その後、新日本プロレス、全日本プロレスと渡り歩いて、トップレスラーとして活躍した。得意技のウエスタン・ラリアットはハンセンの代名詞となり、多くのレスラーに影響を与えた。2001年にヒザの故障が原因で引退。ジャイアント馬場三回忌追悼興行での引退セレモニーには全日本の選手だけでなく、新日本の選手も参列した。