【BUBKA 9月号】山本喧一 インタビュー Uインターの絶頂期と崩壊 新弟子の眼に映った髙田の背中

団体にとって異色の存在だったゴールデンカップスは、経営の傾いたUインターのカンフル剤となった一方で、U信者からは批難を浴びた。

だがその結成は、Uの命運と己の人生を賭けた山本喧一の覚悟こそが発端だった。

「はぐれ者」と呼ばれた男が、新弟子時代の壮絶な日々に眼差した髙田延彦の背中とは。

写真提供=平工幸雄

Uインター 酒席の掟

――ヤマケンさんは、伝説の団体UWFインターナショナル出身ですけど。一番すごいメンバーが揃っている時代に新弟子時代をすごしているんですよね(93年に入門)?

山本 そうなんですよ。髙田(延彦)さんがトップで、宮戸(優光)さん、安生(洋二)さんがその脇をガッチリ固めて。まだ田村(潔司)さんもいましたし、高山(善廣)さんが新人の教育係でとにかく厳しかったし。よくあんな中で、一番下っ端をやっていたなって、今になると思いますよね。

――しかも、ぶっちぎりで一番若かったわけですよね。

山本 自分は16で入りましたから。

――16歳!

山本 ヤバイですよね。あの頃は毎日生きるのに必死で、「明日死ぬんじゃないか」っていうぐらい練習も厳しかったので、朝が来るのが怖かった。

――同期はいなかったんですか?

山本 同期はいなくて、半年先輩が桜庭(和志)さん。で、自分の後で次に残ったのが、3年後輩の上山(龍紀)ですから。厳しすぎて3年間、誰も残らなかったんですよ(笑)。

――おかげで3年間も一番下っ端のままだったんですね(笑)。新弟子時代、何が一番大変でした?

山本 練習も私生活も全部ですよね。ボロボロになるまで練習したあとに、先輩の練習に付き合って、付き人もやって、先輩全員の炊事洗濯もありますからね。で、合宿所に帰っても先輩と一緒にいるわけじゃないですか。気が休まる時がまったくないんですよ。

――ほとんど”懲役”ですね(笑)。

山本 いや、刑務所のほうがまだマシなんじゃないかと思いますよ。合宿所だって3LDKの一軒家だったんですけど、先輩方は1人部屋、2人部屋が割り当てられてましたけど、僕ら新弟子はゴキブリの出るキッチンに煎餅布団並べて寝てましたからね。

――部屋すら与えられない(笑)。

山本 寝てる間も顔の周りをゴキブリがカサカサ動いてるんですよ。いや~、あれは精神的にしんどかったですね。で、入門して半年ぐらいしたら髙田さんの付き人になったんで、これもまた大変なんですよ。身の回りのお世話をするだけじゃなく、週末は六本木だ、銀座だ、赤坂だと呼び出されるんで。

――プロレス界でも1、2を争う酒豪と言われる髙田さんのお酒の席にも付き人として行かなきゃいけない(笑)。

山本 髙田さんの酒の強さはハンパじゃないですから。飲むとなったら朝までは当たり前。翌日の昼まででも気が済むまで飲むわけですよ。そこに自分もゲロ吐きながらついていかなきゃいけない。でも、レスラーたる者、人前で醜態を晒しちゃいけないんで、吐いても吐いてないふりをしなきゃいけない。


――インタビュ―の続きは絶賛発売中のBUBKA9月号にて!


やまもと・けんいち
1976年7月11日生まれ、大阪府出身。1993年にUWFインターナショナルに入門、94年桜庭和志戦でデビュー。ゴールデンカップスとして人気を博す。その後はキングダムを経て、98年にリングスに移籍。99年にはUFC初代無差別級ジャパン王者に。現在は格闘技ジム、POWER OF DREAMの会長を務める。