【BUBKA 9月号】BUBKA流スーパースター列伝vol.25「サブマリン707」小沢さとる

代表作『サブマリン707』『青の6号』が連載終了から数十年経った90年代にアニメ化されるなど、後のクリエイターに大きな影響を与えただけでなく、大人気プラモデル『ロボダッチ』の原作・キャラクターデザインを担当して子どもたちを魅了したレジェンド漫画家・小沢さとる。

漫画家デビューを「つまずきの元」と語る、独自の漫画家人生について吉田豪がじっくりと聞いた!

漫画家になるつもりはまったくなかった

小沢 (突然)おもしろい話はないよ。

――え! そうなんですか!?

小沢 やっと生きてるぐらいだからね。

――キャリアは相当長いじゃないですか。

小沢 うん、まさかの63年。ただ僕の場合キャリア63年って言っていいのかどうか。

――漫画以外にもお仕事をされてきたから。

小沢 だから漫画界とはほとんどつき合いがないんですよ。僕は漫画家になるつもりなんてまったくなかったし、なれるとも思ってなかった。それが、ひょんなきっかけで高3のときに手塚治虫のアルバイトを紹介されて。工業学校だったから「漫画のペン入れぐらいできるんじゃねえか? だったらいいアルバイトがあるぞ。日当700円」なんて言われてね。当時は最高が日当800円、鋳物屋のアルバイトなんかはヤケドしながらせいぜい240円だから破格だったんだよね。一番よかったのはヤクザの出入りのアルバイト。

――ダハハハハ! そんなのあるんですか!

小沢 そういう時代だったの。僕らの時代は漫画家に限らず、ヒロポンなんていうのが違法薬物じゃなかったから。タバコ感覚で。

―― 当時、手塚先生の知識はありました?

小沢 まったくない。手塚治虫って知らなくて、「ウジムシ」って読んでたぐらい。だいたい漫画家っていうのが、言ってみりゃ世間の蔑視の対象だったからね。特にウチの親父は実直な公務員で、とにかく漫画は読ませてもらえないで育ったから。「漫画を読むようなヤツは人間の屑だ」「漫画を描くようなヤツは国を滅ぼす」みたいに言われて(笑)。

――ありましたね、漫画亡国論。

小沢 それで手塚さんの仕事場に行ったら、なるほど親父の言うようにちょっとこのアルバイトにはいられないなと思って。初めて見る節操のない世界というかだらしない世界というか。とにかく紫煙でいっぱいなんです、タバコの煙で。みんな旅館の浴衣を着崩し、だらしない格好で机を囲んで流れ作業でやってるんですよ。その向こうでは編集者たちが雀卓を囲んでたり、オイチョカブをやったり、とにかく想像を絶するぐらいひどい世界だったんです。だから、そのアルバイトを紹介してくれた先輩に、「悪いけど俺、このアルバイトはいらないや」って言って帰ろうと思ったの。その先輩は『少女サロン』(偕成社)の編集者だったんで、講談社、集英社なんかと違って弱小出版社で、手塚さんの連載やってても3回に1回は落ちるぐらいで。


――インタビュ―の続きは絶賛発売中のBUBKA9月号にて!


おざわさとる
1936年2月3日、埼玉県生まれ。1957年に『少女』に掲載された『ルミ死なないで』でデビュー。代表作の『サブマリン707』『青の6号』で大人気を獲得。『サブマリン707』は1997年に、『青の6号』は1998年にアニメ化された。漫画家として活動しただけでなく、大ヒットしたプラモデル『ロボダッチ』シリーズの原作・キャラクターデザインを手がけた他、大ヒットミニカー『チョロQ』シリーズの開発にも携わっている。