【BUBKA10月号】天龍源一郎がレジェンドについて語るミスタープロレス交龍録 第十二回「ビル・ロビンソン」

天龍源一郎は、その40 年間の“腹いっぱいのプロレス人生”で様々な名レスラーと出会い、闘い、交流した。ジャイアント馬場とアントニオ猪木の2 人にピンフォールでの勝利を収めた唯一の日本人レスラーであり、ミスタープロレスとまで称された天龍。そんな天龍だからこそ語れるレジェンドレスラーたちとの濃厚エピソードを大公開しよう!

写真/平工幸雄

ロビンソンとお揃いの紫のトランクス

それにミッツが初めて男を意識(笑)?

 今回は、俺が日本で浮上するきっかけを作ってくれた”人間風車”ビル・ロビンソン。1981年7月30日の後楽園ホールでロビンソンと組んで馬場さん、ジャンボ(鶴田)のインター・タッグに挑戦したことが、このプロレス界でずっとアンラッキーだった俺にとってラッキーの始まりだった。もちろん、それ以前にリング上で戦っているんだけど、ほとんど覚えていないのが正直なところだよ。当時の俺には「ロビンソンは俺とは関係なくて、馬場さんとジャンボの相手」という意識があったからじゃないかな。

 で、81年の夏になるんだけど、俺とロビンソンのタッグは今考えると不思議な巡り合わせとしか言いようがない。ロビンソンと組んで馬場さん、ジャンボのインター・タッグに挑戦するはずのディック・スレーターが交通事故の後遺症でシリーズ途中で帰らなければ、あり得ない話だったし、この年の6月に馬場さんの命令でアメリカから日本に戻ったけど、相変わらずだった俺がテキサス州ダラスのフリッツ・フォン・エリックのところに行くことを決めてなければ「だったら代わりの外国人選手を呼ばなくても、どうせアメリカに行っちゃう俺がロビンソンと組んでもいいですよ」って、言い出さなかったと思うんだよね。

 それ以前にロビンソンとは喋ったこともないんだよ。だからタイトルマッチの前日に馬場さんが静岡県のショッピングセンターの駐車場で1回だけタッグマッチを組んでくれてジャンボ、(ロッキー)羽田組とやったんだけど、ロビンソンがパートナーということで凄く気楽だったよ。意外にやりやすかった。試合後にロビンソンが「お前が知ってる技は何でも使っていいから」って。それで本番のインター・タッグではアメリカで使っていた延髄斬りを解禁するんだけど、ロビンソンから「お前は体格的に猪木に似てるからオクトパス(卍固め)をやれ。昔からヨーロッパにある技だから構わない。あとはやることがなくなって困ったら、俺にタッチしろ。俺がちゃんと試合を作り直してやるから、何も心配はいらない」って言われてホッとしたのを憶えているね。

 ロビンソンは「俺は自分のやりたいことだけやる」っていうスタイルで、勝手気ままに自分のことをやっていたから、むしろ俺がパートナーだったことが良かったと思うよ。俺にしても、そんなロビンソンだから何も重荷にならなかったしね。俺は俺でやれることをやってロビンソンにつなげば、彼は彼で自分のやりたいことだけやるんだから。


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天龍源一郎
1950年生まれ、福井県出身。1963年に大相撲入り。1976年のプロレス転向後は「天龍同盟」での軍団抗争や団体対抗戦で日本・海外のトップレスラーと激闘を繰り広げ、マット界に革命を起こし続ける。2015年の引退後もテレビなど各メディアで活躍中。

ビル・ロビンソン
1938年、イギリス・マンチェスター出身。「蛇の穴」として知られるビリー・ライレー・ジムで学び、プロレスラーとしてデビュー。日本では国際プロレス、新日本プロレス、全日本プロレスのリングに上がって、ニックネーム「人間風車」のもとになったダブルアームスープレックスなどを武器にファンを沸かせた。1985年の引退後はUWFインターナショナルのトレーナーをつとめた他、UWFスネークピットジャパンのヘッドコーチをつとめて東京の高円寺に住むなど、日本との関わりが深かった。2014年にアメリカのアーカンソー州の自宅で亡くなった。