【BUBKA 11月号】日米の怪物たちと隣り合わせで生きぬいたレフェリー一代記 タイガー服部
昭和のプロレスを揺るがした規格外のレスラーたちは、しばしば太平洋を超え、日米を往還した。タイガー服部はそんな怪物たちの公私両面を世界一スリリングな場所で見続けた。2019年9月、最後の審判の日は訪れる。
青春の日々を過ごしたアメリカを引退の地に選んだ男が、長きに渡るレフェリー生活を振り返る。
写真提供=平工幸雄
全米選手権優勝
――今日は、タイガー服部さんにレフェリー一代記を語ってもらいたいんですよ。
服部 俺もさすがにそろそろ引退するからね。レスリングビジネスに関しては、足掛け40~50年やってるからさ。
――プロレスの仕事を始めるきっかけはなんだったんですか?
服部 俺はもともとアマチュアレスリングをやっていてね、全日本選手権を獲ったあと、1969年にアルゼンチンの世界選手権に出場したんだよ。その時は4位に終わって優勝はできなかったんだけど、そのまま大会が終わっても日本には帰らず、ブラジルとか南米を転戦して、ロスに入って、そこからアメリカ各地を転戦してね。いま、日体大の理事長やってる松浪(健四郎)っているじゃん?
――元”ちょんまげ議員”ですよね。
服部 あいつが一級後輩で、一緒にアメリカを回ったんだよ。まさか、あんなに偉くなるとは思わなかったけどね(笑)。そうやって転戦する中で、シカゴのノースウエスタン大学のアシスタントコーチになって。その後、俺は柔道も三段持っていたから、ニューヨークで柔道を教えながら、ニューヨーク・アスレチッククラブっていう伝統あるクラブでレスリングの選手も続けて。71年にフロリダのタンパで開催された全米選手権に出場して、57キロ級で優勝しちゃったんだよね。
――全米選手権優勝って、めちゃくちゃすごいじゃないですか!
服部 たまたまだよ(笑)。でさ、当時のフロリダはプロレスが盛んで、アマレスの全米選手権のスポンサーが「チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ」っていうプロレスの会社だったの。
――へえ、そうなんですか。エディ・グラハムの団体ですよね。
服部 社長がエディで、副社長がデューク・ケオムカさん(日系アメリカ人のプロレスラー)。パット・タナカのお父さんね。それでヒロ・マツダさん(全米で活躍した日本人フリーレスラーのさきがけ)も役員やってて、「タンパに残らないか?」って誘われたんだよ。俺も独身だったし、「ああ残ります」って言って残って、マツダさんとレスリングと柔道のスクールを作ったの。俺はインストラクターでね。そこで出会ったプロレスラーはたくさんいるよ。ディック・スレーター、ポール・オーンドーフ、スティーブ・カーンとか。俺は、そういったプロレスラーに、アマレスを教えてた。プロレスをやるにしても、ベースは必要だからね。
――最初はレスリングのコーチとして、プロレスに関わりだしたんですね。
服部 そこに習いに来たのが、まだ18歳ぐらいのハルク・ホーガンだから。あいつのことは、プロレスやる前から知ってるもん。
――ミュージシャンだった頃からですか?
服部 ああ、知ってるよ。だって俺は、クラブであいつが組んでたバンドの演奏を何度も聴きに行ってるからね。たまたま俺が借りてたマンションの上の階にホーガンのバンド仲間が住んでたからさ。でも、あれだけの身体をしてるんだから、バンドよりプロレスやれってめられて、レスラーになったんだよ。最初はすごくしょっぱかったけどな(笑)。
――インタビュ―の続きは絶賛発売中のBUBKA11月号にて!
タイガー服部
1945年7月20日生まれ、東京都出身。1966年全日本レスリング選手権大会、67年レスリング世界選手権で優勝。明治大学卒業後に渡米。82年に新日本プロレスに入団後、84年に長州力と共にジャパンプロレスを設立。90年代は新日本に復帰し数々の名勝負を裁いた。02年末にWJプロレスを設立、04年に再び新日本へ。今年9月のアメリカ大会での引退を発表している。
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