【BUBKA 11月号】吉田豪のレジェンド漫画家編 BUBKA流 スーパースター列伝 vol.26 「タツノコプロ創始者」九里一平

売れっ子漫画家として活躍した後に、兄弟で『ガッチャマン』や『タイムボカンシリーズ』などで知られるアニメ制作会社タツノコプロを立ち上げた九里一平。本年には時代劇漫画『暗闇同心 鍔鳴剣屍郎 怨霊斬り』を発表したことで話題を呼んでいる。そんな九里に漫画からアニメへと移り変わったクリエーター人生について、プロインタビュアー吉田豪がたっぷりと聞いた!

『スーパーマン』から絵の基礎を教わった

――九里先生はタツノコプロのアニメのレジェンドだと思うんですけど、今日は漫画のレジェンドとして話を聞くインタビューです!

九里 もともとは漫画なんですよ。でも覚えてないなあ、4~5年前だったら覚えてるんだけど。ちょっと記憶が曖昧になってきていて。

――ただ、いまでも現役漫画家ですからね。

九里 まだ描けないことはないんだけど、こういうの(19年発売『暗闇同心 鍔鳴剣屍郎 怨霊斬り』)はちょっとしんどいですね。

――この密度で描いてたらしんどいですよ!

九里 だからエネルギーが要るんですよ。アシスタント使わないと枠線からバックから全部でしょ? 体力的に、これが最後ですね。

――とんでもない画力だし、すさまじいクオリティだと思いました。なので、その原点から聞ければと思います。お兄さんの吉田竜夫さんが絵物語を始めたのがきっかけだったそうですけど、どんなご家庭だったんですか?

九里 原点は3人兄弟っきりですね。親父は戦争に行ったし、母親は僕が0歳のとき亡くなったから僕は覚えてるわけないんですよ。

――兄弟3人でその状況は過酷ですよね。

九里 終戦直前ですからね。親父は印刷工だったんですよ。一家の柱なのに戦争に取られちゃったから、なんにもできない。だから、お祖母さんに面倒見てもらった。生まれは京都なんですけど、終戦になってアメリカ兵が来たりして、みんな没収されて。東山のホテルとかは外人の将校たちのダンスホールになったりして。そこで兄貴はボーイなんかをやって、当時は進駐軍関係じゃないと食えないようなチョコレートもらってきてくれたり。

――それでアメリカへの憧れが芽生えて。

九里 もちろん。終戦以降、当時はあちこちに負傷兵がいるじゃないですか。終戦で帰ってきた、まだ戦闘帽を被ってるような人がガリガリなんですよね。ところが戦争に勝った南方から来たような外人は、海兵隊でしょうかね。逞しいのがバーッとジープに乗って来たりすると、これには日本は負けて当り前だってことで、非国民だけどもアメリカ人が好きで(笑)。第一、明るかったんですよ。いまでいう売春婦、その頃はパンスケっていってたんだけど、ジープに乗せてお寺の見学に来て、子供にチョコレートくれたりしてね。何もわからん頃だから非常にあこがれて。


――インタビュ―の続きは絶賛発売中のBUBKA11月号にて!


くり・いっぺい
1940年1月1日、京都府出身。『あばれ天狗』で漫画家デビュー。『週刊少年マガジン』に連載したオートバイ漫画『マッハ三四郎』などで人気を獲得。1962年に兄の吉田竜夫、吉田健二と竜の子プロダクション(現・タツノコプロ)を立ち上げ、アニメの世界に進出。『科学忍者隊ガッチャマン』などでプロデューサーを務めた。1987年には第3代社長に就任。社長退任後も創作活動を積極的に行ない、2019年7月には描き下ろし漫画『暗闇同心 鍔鳴剣屍郎 怨霊斬り』を発表した。