【BUBKA 11月号】天龍源一郎がレジェンドについて語る ミスタープロレス交龍録 第13回「阿修羅・原(前編)」
天龍源一郎は、その40年間の“腹いっぱいのプロレス人生”で様々な名レスラーと出会い、闘い、交流した。ジャイアント馬場とアントニオ猪木の2人にピンフォールでの勝利を収めた唯一の日本人レスラーであり、ミスタープロレスとまで称された天龍。そんな天龍だからこそ語れるレジェンドレスラーたちとの濃厚エピソードを大公開しよう!
写真/平工幸雄
全日本に来た最初の頃は孤高の闘士
まるで卓袱台返しのような失踪事件
今は『ラグビー・ワールドカップ』の真っ最中。ラグビーというと思い出すのは、やっぱり阿修羅・原だね。阿修羅が国際プロレスに入団したのは、俺がプロレスに入って、アマリロでの修行を終えて、日本デビューをしたばかりの時(1977年11月)で、国際にはラグビー出身のグレート草津さんがいたから、最初は「草津さんの関係で人が入ってきたんだな」っていうぐらいの印象しかなかったんだよ。国際はテレビ東京……当時の東京12チャンネルで放送していて、たまたま阿修羅の試合を観たら、キンキラキンのコスチュームを着て出てきたんだよね。俺は相撲出身、彼もラグビーの出身で、プロレスとは違う畑から来ているから「30過ぎて、この恰好はこっぱずかしいだろうなあ」って思ったのを憶えてるよ。あとで人伝に聞いたら阿修羅本人が「派手なコスチュームを作ってくれ」って、テレビ局の人にリクエストしたらしいんだけど(笑)。多分、自分で吹っ切りたかったんだろうね。
俺が3度のアメリカ修行から帰国してビル・ロビンソンとのタッグで開眼した81年の8月に国際が倒産したんですよ。阿修羅は故郷の長崎に帰っていたんだけど、俺がNWA世界王者のリック・フレアーに挑戦するのを知って「何で同じようなキャリアなのに、俺と天龍にこんなに差があるんだ!」って自己主張して、(10月2日の)後楽園ホールでいきなり一騎打ちをやったのが最初の出会い。それまで会ったこともなければ、口を聞いたこともなくてリング上が初対面だった。
でも彼が日本初の世界選抜メンバーに選ばれたラグビー界のエースだったっていうことは小耳に挟んでいたし、俺も相撲の幕内で勝ち越して入ってきた経緯があるから、お互いに「そんじょそこらのレスラーとは違うよ」っていうプライドを持っていたと思いますよ。だから何となく最初から親近感はありましたよ。
初めての一騎打ちは小細工なしにぶつかり合ったなっていう感覚かな。俺もそんなに技量があるわけじゃないし、阿修羅だってまだデビューしてたったの数年で、そんなに出来るわけがないんだから肉弾戦……相撲から来た天龍源一郎とラグビーから来た阿修羅・原のわかりやすいプロレスだったと思うね。その頃はジャンボ鶴田、藤波辰巳といったテクニシャンが揃っていた時代だから「これでもか!」ってガツンガツンぶつかる肉体のせめぎ合いだけで終わった試合は、賛否両論があったんじゃないかな。相撲のぶちかましとラグビーのタックルの対決みたいなものだったからね(苦笑)。
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天龍源一郎
1950年生まれ、福井県出身。1963年に大相撲入り。1976年のプロレス転向後は「天龍同盟」での軍団抗争や団体対抗戦で日本・海外のトップレスラーと激闘を繰り広げ、マット界に革命を起こし続ける。2015年の引退後もテレビなど各メディアで活躍中。
あしゅら・はら1947年、長崎県出身。1976年に日本人として初めて世界選抜メンバーに選出されるなど、ラグビー選手として活躍。ラグビー引退を機にプロレスに転向。国際プロレスでデビューし、次期エースとして期待された。国際プロレス解散後は全日本プロレスのリングに上がり、天龍源一郎とのタッグ「龍原砲」で人気を獲得。全日本脱退後は、天龍のSWS、WARに参戦。1994年の引退後は故郷に戻り、母校・諫早農高ラグビー部のコーチなどを務めたが、体調を崩して療養生活を送り、2015年に肺炎のため亡くなった。
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