【BUBKA 12月号】吉田豪のBUBKA流 スーパースター列伝 レジェンド漫画家編 vol.27「胸さわぎの放課後」村生ミオ

70年代から現在まで現役であり、『胸さわぎの放課後』『微熱MYLOVE』『SとM』など数多くの作品がドラマ・映画化されるという華々しい活躍をしているにも関わらず、インタビューをほとんど受けていないため、その人となりが謎の村生ミオ。ラブコメで一世を風靡し、現在はサスペンスを手がけるベテランの実像に吉田豪が迫った!

取材はほとんど受けず

顔も知られていない

――これだけのキャリアと知名度がありながら、ここまで謎が多い人も珍しいと思いまして、たっぷりと人生を掘り下げにきました!

村生 そうですかね? あと去年でしたか取材のお話いただきましたけど、そのときは断っちゃってすみません。ちょっと忙しくて。

――いや、いくらでもアタックしますよ!

村生 そうですか(笑)。

――あまり取材はお好きじゃないんですか?

村生 そうですね、あんまり好きじゃないっていうか……取材は受けてないんですよね。

――顔も知られてないと思うんですよ。

村生 少年誌の頃はコミックスのカバーのうしろに写真を載せてたんですけどね。「笑ってくれ」って言われても引きつる感じで。

――それ以降はあまり出ないようにして。

村生 出ないようにっていうか、そんなに機会がなかったですね。取材は前に一度……。

――『コミックナタリー』でもやってて。

村生 あ、『ナタリー』で! そうです、あともうひとつ雑誌で、大西(祥平)さんがお見えになったんですけど、それだけですね。

――それだけ! 『コミックナタリー』では首から下の写真だけだったし、ラブコメ路線からなぜこういう作風に至ったのかとか、いちいち謎の多い作家さんだと思うんですよ。

村生 いやいや、謎なんてなんにもないですよ(笑)。もともと絵を描くのも漫画も好きでしたけど、ただ自分で描いてみたいってなったのは……やっぱり身近に感じたのは『少年ジャンプ』ですね。わりと新人が……。

――新人を起用する雑誌でしたからね。

村生 だから創刊されて、月例とか新人賞に何作か応募したのが初めてだと思います。

――柳沢きみお先生のアシスタントを経て、『ジャンプ』でデビューしたんですよね。

村生 アシスタントは、年齢でいうと21歳から3年ぐらいやりましたね。先生自身がまだ『ジャンプ』とか『チャンピオン』とかで描いていたあたりで、『翔んだカップル』のときはもういなかったんですけど……。

――柳沢先生にはどんな影響を受けました?

村生 貪欲な姿勢ですね、描き続ける……。

――作風の変化は多少近いですよね。ギャグでデビューしてからラブコメ路線にいって。

村生 そこからストーリーにいってね。ただ僕は『ジャンプ』では成功しなかった……。

――手塚賞の佳作を獲ったぐらいで。

村生 そうですね、読み切りだけでしたね。

――何がハマらなかったんですかね?

村生 たぶんね、ギャグセンスがなかったってことだと思うんです(あっさりと)。


――インタビュ―の続きは絶賛発売中のBUBKA12月号にて!


むらお ミオ
1952年4月28日、徳島県出身。1972年に『別冊少年ジャンプ』において、『かっぱラブラブ大作戦』で漫画家デビューを果たす。1974年に『ふたごバンザイ』で手塚賞佳作を受賞。代表作は『胸さわぎの放課後』『結婚ゲーム』『微熱MY LOVE』『サークルゲーム』『Xenos』『SとM』など。『恥じらう肌』(画・優斗)や『彼女の肌が忘れない』(画・後藤圭介)などでは漫画原作を手がけている。