【BUBKA 12月号】天龍源一郎がレジェンドについて語る ミスタープロレス交龍録 第14回 阿修羅・原(後編)
天龍源一郎は、その40 年間の“腹いっぱいのプロレス人生”で様々な名レスラーと出会い、闘い、交流した。ジャイアント馬場とアントニオ猪木の2 人にピンフォールでの勝利を収めた唯一の日本人レスラーであり、ミスタープロレスとまで称された天龍。そんな天龍だからこそ語れるレジェンドレスラーたちとの濃厚エピソードを大公開しよう!
写真/平工幸雄
龍原砲時代が職業意識を高めてくれた共通の記憶は試合後のスーパードライ
1987年春、それまでジャパン・プロレスとして上がっていた長州力が新日本プロレスに帰っちゃって「全日本プロレスを何とかしなくちゃいけない!」って行動を起こそうとした時に、阿修羅・原のタフさとか、プロレスに対する真摯な気持ちを理解していたから「ここは阿修羅しかいない」って思ったんだよね。シリーズ中の休みの日の6月4日に名古屋のシャンピアホテルで、2人で話をして「阿修羅、大丈夫? これからは目いっぱいやるような厳しい試合になるけど」って言ったら「源ちゃん、やろうよ!」って納得してくれましたよ。ラグビーの日本選抜、世界選抜メンバーだった阿修羅は「誇りの持てるプロレスがやりたい」っていう、普通のレスラーとは違った独特の表現をしていたね。だから不甲斐ないやつにはゴツンゴツンと音がするような頭突きをモロにかましたり(苦笑)。
龍原砲を組んでの初戦は山口県長門の輪島大士、大熊元司戦(87年6月6日)。元横綱の輪島さんが入ってきたことで、世間一般の人たちが全日本プロレスに注目し始めたんだけど、その時にスタン・ハンセンとかタイガー・ジェット・シンが輪島さんに付き合うような試合をしているのを観て「これは全日本プロレスがヤバい!」って思ったんだよね。だって世界一強いって言われたアントニオ猪木をしこたまやったつけたハンセンやシンが、元横綱とはいえ、入ってきたばかりの輪島と互角に戦っていたらプロレスは駄目になるでしょ。だから世間一般がプロレスを注視し始めた時と、俺たちがガツガツの昔のようなプロレスをスタートしたのが重なったことで、俺たちの対戦相手にはいつも輪島さんがいたよ。馬場さんは輪島さんに頑張ってほしくて龍原砲と対戦させていたと思うんだけど、逆に俺たちのほうがスポットライトを浴びるっていう皮肉な結果になったね。
とりあえず俺たちは毎日取材に来る記者たちを唸らせなければファンに伝わらないと思ったから手を変え、品を変えて毎日違う試合をやっていた。サンドイッチ・ラリアットもそのひとつで「あれをやろう」「これをやろう」って次から次へとアイデアが湧いてきて、毎日が楽しくてしょうがなかった。
――インタビューの続きは絶賛発売中のBUBKA12月号にて!
天龍源一郎
1950年生まれ、福井県出身。1963年に大相撲入り。1976年のプロレス転向後は「天龍同盟」での軍団抗争や団体対抗戦で日本・海外のトップレスラーと激闘を繰り広げ、マット界に革命を起こし続ける。2015年の引退後もテレビなど各メディアで活躍中。
あしゅら・はら
1947年、長崎県出身。1976年に日本人として初めて世界選抜メンバーに選出されるなど、ラグビー選手として活躍。ラグビー引退を機にプロレスに転向。国際プロレスでデビューし、次期エースとして期待された。国際プロレス解散後は全日本プロレスのリングに上がり、天龍源一郎とのタッグ「龍原砲」で人気を獲得。全日本脱退後は、天龍のSWS、WARに参戦。1994年の引退後は故郷に戻り、母校・諫早農高ラグビー部のコーチなどを務めたが、体調を崩して療養生活を送り、2015年に肺炎のため亡くなった。
0コメント