【BUBKA 1月号】 天龍源一郎がレジェンドについて語るミスタープロレス交龍録 第15回「ハーリー・レイス」
天龍源一郎は、その40年間の“腹いっぱいのプロレス人生”で様々な名レスラーと出会い、闘い、交流した。ジャイアント馬場とアントニオ猪木の2人にピンフォールでの勝利を収めた唯一の日本人レスラーであり、ミスタープロレスとまで称された天龍。そんな天龍だからこそ語れるレジェンドレスラーたちとの濃厚エピソードを大公開しよう!
写真/平工幸雄
金属のプレートが入った腕をコツコツ
丁髷をつけた俺を見て威嚇してきたよ
俺ね、相撲から全日本プロレスに入ってすぐの頃の取材で「どんなレスラーが目標ですか?」って聞かれて「荒っぽくて、馬力があって、ラフもテクニックも両方こなせるハーリー・レイスのようなレスラー」って、答えたらしいんだよね。もう昔のことだから忘れていたけど、そう聞かされて「ああ、確かにレイスの名前は出しただろうな」って思ったよ。というのも、相撲からプロレスに転向しようかどうか迷っている時に最初に会ったレスラーがレイスだったんですよ。テリー・ファンクとジャンボ鶴田のNWA世界タイトルマッチ(1976年6月11日=蔵前国技館)をナマで観たのと同じシリーズでしたね。経緯は憶えてないんだけど、ヒルトンホテル(現在のザ・キャピトルホテル東急)で、のちにNWA会長になるプロモーターのジム・クロケット・ジュニアもいましたよ。
レイスの腕には交通事故の手術で金属のプレートが入っていて、丁髷をつけている俺を見て、その腕をコツコツ叩いて音を出して、やたらと威嚇してきたのを憶えてますよ。あとで聞いたら、いつも初対面の奴にはそうやってかましていたらしいけどね(笑)。
彼は祭りなんかのアトラクションで腕自慢の素人と賞金をかけて戦うカーニバル・レスラーとして16歳でデビューしているから「レスラーたるものは」っていうのを植え付けられたんだろうね。相撲取りの俺を見て「プロレスラーはこれだけタフなんだぞ!」ってかましてきたんだと思うよ。「お前がレスラーになって次に会った時にはフォールしてやるから覚悟しておけよ」とも言われたしね。当時の俺はテンパってたから「やかましい、ジジイ!」って思ったけどね(苦笑)。
初めて対戦したのは翌年の日本デビュー第2戦の大宮スケートセンター(77年6月12日)。ジャンボと組んでレイス、ホースト・ホフマンとやったんだよ。何でそれを憶えているかって言ったら、日本で最初にフォールを取られたのがレイスだったから。その時のレイスはテリーに勝ってNWA世界チャンピオンになっていて「これが世界チャンピオンの貫禄なのかな」って感じさせられましたね。
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天龍源一郎
1950年生まれ、福井県出身。1963年に大相撲入り。1976年のプロレス転向後は「天龍同盟」での軍団抗争や団体対抗戦で日本・海外のトップレスラーと激闘を繰り広げ、マット界に革命を起こし続ける。2015年の引退後もテレビなど各メディアで活躍中。
ハーリー・レイス
1943年、アメリカ合衆国ミズーリ州出身。カーニバルレスラーとして経験を積んだ後、1960年代に本格的にプロレスに進出。日本には1968年に初来日し、ジャイアント馬場、アントニオ猪木、天龍源一郎らと激闘を繰り広げた。1995年の引退後はプロレス団体WLWを主宰して、後進のレスラーを育成した。日本との関わりは深く、ノアのチャンピオンベルトGHCの管理委員長や新日本プロレスでのNWA世界ヘビー級選手権の特別立会人などを務めた。2019年8月1日に肺がんによる合併症のため亡くなった。
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