【BUBKA2月号】吉田豪のレジェンド漫画家編 BUBKA流 スーパースター列伝 vol.29 『ダメおやじ』古谷三敏
都内某所にある一軒のバーを舞台に描かれる『BARレモン・ハート』を連載し始めて約35年。手塚治虫や赤塚不二夫という名だたる漫画家のアシスタントを経験し、『ダメおやじ』で爆発的なヒットを飛ばした古谷三敏が登場。 ユーモラスかつ、うんちくを織り交ぜながらの人生模様を描いてきた古谷三敏に、数々の巨匠との出会いや思い出、自作について吉田豪が迫る!
ギャンブル好きの父親の密造酒を小5の時に飲んだ
――古谷先生は満州生まれですよね。
古谷 そうです。満州はちばてつや、北見けんいち、森田拳次と僕と4人で生まれ故郷に行くツアーがあったんですよね。赤塚不二夫先生はその時点ではもう病気になってたんですけど。なんとみんな町内会ぐらいのところに住んでたんですよね。「うわ、こんな近くだったの!?」って。ひとつの街にそれだけの漫画家がいるっていうことはないじゃない。
――しかもフジオプロの人が多いっていう。
古谷 だから不思議だなと思ってね。高井研一郎だけが離れてて、上海だったんですよ。「俺はおまえたちとは違う」「一緒にしないでくれ」って、ずーっと言ってたの(笑)。
――古谷先生のお父さんは満州のお寿司屋さんで、2階を賭場にしてたんですよね?
古谷 そうそうそう。だって店の名前が江戸前寿司一点張りっていうんですよ(笑)。どうしようもないギャンブル好きで、夏は窓を開けてみんなフンドシ一丁で花札やってたらしいんですよね。お金が舞ってるわけです。そしたら隣の天ぷら屋さんの奥さんが嫌だったんでしょうね、警察に電話して(笑)。
――通報&摘発されて(笑)。
古谷 それで1週間の営業停止食らって。その頃は冷凍用に氷をいっぱい詰めて日本から運んでたらしいんですよ。冷蔵庫はあっても1週間だから腐っちゃって、ネタが全部ダメになって。それでしょうがないから店を畳んで北京で職人やるって言って。そのおかげで危険そうなロシア人とかにも会わなくて。
――終戦時の危機を脱して。
古谷 うん、昭和20年の12月にはもう日本に帰ってきたんですよ。だから塞翁が馬だなっていうね。親父は「俺がギャンブルやっててよかっただろ」ってしばらく言ってたね。そういう親父でね。麻薬はやるわで(笑)。
――え!
古谷 うん、麻薬の取り合いでピストルで撃たれて大きな傷がしばらくありましたね。そういう親父で。僕が小学校5年生のときに県の衛生ポスターっていうのに応募したら2位に入って500円もらったんですよね。賞状とか目録とかもらって自分の家の机のところに貼ってたら、気がついたら500円がないんですよね。親父が勝手にそれで酒飲んじゃって、「この封筒が残ってるからいいだろ」とか、そういう親父だったんですよ(笑)。
――かなりどうしようもない感じの。
古谷 うん、だから生まれて初めてもらった原稿料が親父の酒代になってしまって。
――小5が原点なんでしょうね。お酒を飲み始めたのも小5って言われてましたけど。
古谷 終戦直後に茨城に帰ったけど米がないから、「俺はなんて不幸な職業に就いたんだ。寿司を握りたくても米が配給でない」ってボヤいてて、それで何をやったかというと密造酒。芋焼酎を家で作って、できたヤツを近くのなんでも屋さんみたいなところに卸して、それを生活の糧にしてたんです。
――インタビュ―の続きは絶賛発売中のBUBKA2月号にて!
ふるや みつとし
1936年8月11日、満州出身。19歳の時に『みかんの花咲く丘』でデビュー。手塚治虫、赤塚不二夫のアシスタントを経て、『ダメおやじ』でヒットを飛ばす。『減点パパ』などうんちくを交えた作品でも人気を獲得した。『落語うんちく高座』『面白うんちく新学説』『知識ゼロからのハイボール入門』など、漫画以外の著書も多数発表している。自作『BARレモン・ハート』と同名のバーを東京・大泉学園で経営している。
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