【BUBKA2月号】 天龍源一郎がレジェンドについて語るミスタープロレス交龍録 第16回「冬木弘道」
天龍源一郎は、その40年間の“腹いっぱいのプロレス人生”で様々な名レスラーと出会い、闘い、交流した。ジャイアント馬場とアントニオ猪木の2人にピンフォールでの勝利を収めた唯一の日本人レスラーであり、ミスタープロレスとまで称された天龍。そんな天龍だからこそ語れるレジェンドレスラーたちとの濃厚エピソードを大公開しよう!
写真/平工幸
冬木は友達感覚で喋れる付き人だった
俺の言葉で好き勝手な理不尽大王に!
今回のお題は冬木? ブブカの記事で冬木を出して大丈夫なの? 読者は誰も知らないでしょう(苦笑)。
プロレスに詳しくない読者に説明すると、冬木は元々、国際プロレスの選手だったんだけど、1981年の8月に団体が潰れて、10月に国際のトップだったマイティ井上さんに連れられて全日本プロレスに来たんだよ。全然目立たない存在だった。ホントに大人しかったよ。
で、82年だったのかな? カブキさんが「新日本のトップの人間は付き人がいるのに、全日本のトップの選手が荷物を持って歩いていたら団体としてカッコよくないから、ジャンボ鶴田と天龍にだけは付き人をつけるようにしようよ」って言い出して、馬場さんには越中(詩郎)が付いていたから、あとは物事がわかっている若手は三沢(光晴)と冬木しかいなくてね。ジャンボが「源ちゃん、どうすんの?」って聞くから「じゃあ、冬木でいいっスよ」ってことで冬木が俺の付き人になったんだ。冬木を選んだのは、ヨソの国際から来て、肩身が狭そうだなって俺の目には映ったんだよね。
付き人ができたっていうのは、自分でトランクスを洗わなくていいっていうのと、飯を食いに行く仲間ができたっていう感じだったね。でしゃばるでもなく、引きすぎるわけでもなく、俺にとっちゃ、試合が終わった後に友達感覚で喋れる相手が冬木だったよ。試合を観に来たネエチャンのこととか、とりとめもない話をしていたね。その中には「プロレスは押し引きのタイミングだよ」とかっていう話も混ざったと思うよ。それで冬木はいろんなことを覚えたんじゃないかな。
若い頃の冬木は、ライバルに三沢がいて、下からは川田(利明)からの突き上げがあって、彼なりに一生懸命努力して、這い上がろうっていう根性があったよね。
当時、全日本生え抜きの若手選手は海外修行によく出ていたのに、冬木はなかなか声が掛からなかったから、何かの時に馬場さんに頼んで、とりあえずメキシコに出してやったんだよ。そこからあいつはアメリカのテキサス、プエルトリコなんかを回って、1年後に体を大きくして帰って来たんだけど、馬場さんに「太り過ぎだ!」って言われちゃって(笑)。
――インタビュ―の続きは絶賛発売中のBUBKA2月号にて!
ふゆき こうどう
1960年、東京都出身。国際プロレスでデビュー。国際プロレス解散後に全日本プロレスに移籍して天龍源一郎の付き人を務め、天龍同盟の一員にもなった。全日本を離れた後は、SWS、WAR、新日本、FMW、ノアなどのリングに上がった。理不尽な言動の“理不尽大王”としてヒール人気を獲得していたが、2002年にガンが原因で引退。引退後は、自身の団体WEWのプロデューサーとして活動した。2003年5月5日に1試合のみ復帰する予定だったが、3月19日にガンのため亡くなった。
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