【BUBKA 3月号】天龍源一郎が レジェンドについて語る ミスタープロレス交龍録 第17回「ブルーザー・ブロディ」
天龍源一郎は、その40年間の“腹いっぱいのプロレス人生”で様々な名レスラーと出会い、闘い、交流した。ジャイアント馬場とアントニオ猪木の2人にピンフォールでの勝利を収めた唯一の日本人レスラーであり、ミスタープロレスとまで称された天龍。そんな天龍だからこそ語れるレジェンドレスラーたちとの濃厚エピソードを大公開しよう!
写真/平工幸雄
彼のポリシーから逸脱した相手は卑下
気に入らないと平気で試合を投げ出す
ブルーザー・ブロディが初来日したのは1979年1月? その頃、俺はフロリダにいたから会ってないな。初めてブロディを見たのは初来日直後のシカゴだよ。日本テレビの全日本(プロレス)中継の収録でフロリダから呼ばれて(ジャイアント)馬場さん、ジャンボ(鶴田)と合流した時(79年2月10日)だったね。テレビ解説で来ていた東京スポーツの山田隆さんに「今回、日本に来て人気が出たんだよ」って聞いたけど、後々の威圧感のようなものは何もなくて、チリチリ頭のでっかいニューフェースだなっていう印象しか受けなかったね。
その後、俺はフロリダからジョージアに行って、79年10月に帰国して……80年1月シリーズでブロディとタッグで対戦しているはずだよ。当時のブロディは、まだ何をどうしていいかわからない暗中模索の状態で、先輩のキング・イヤウケアのコピーみたいに客席を荒らしていたけど、ファンが逃げながらも自分に興味を示してくれることに手応えを感じて、段々と日本のスタイルに慣れるにつれて自惚れていって”驕るブルーザー・ブロディ”っていうのが随所に出てきた。
その後、大学の後輩のスタン(・ハンセン)とタッグを組むようになったけど、当然、自分の方が上だって思っていたはずだよ。トップに行く奴は誰もがそういうプライドを持っているけど、ブロディの場合は特にそれが強かったね。
俺がブロディと初めてシングルでやったのは、最後のアメリカ修行から帰国した翌年の『第11回チャンピオン・カーニバル』の公式戦。確か3分ぐらいで負けたんだけど(82年3月28日、古河市体育館=3分29秒で負け)、やっぱり俺は位負けしていたね。ブロディと当たった時に「どうでもいいや、こんな試合。ひとつ負けたって」っていう投げやりな感じだった。やりたくないっていう気持ちが強かったよ。俺の手数が少ないっていうのもあるんだけど、それと同時に馬場さんやジャンボとずっと熱戦を繰り広げている印象があったから「俺には手に負えないな」って。
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天龍源一郎
1950年生まれ、福井県出身。1963年に大相撲入り。1976年のプロレス転向後は「天龍同盟」での軍団抗争や団体対抗戦で日本・海外のトップレスラーと激闘を繰り広げ、マット界に革命を起こし続ける。2015年の引退後もテレビなど各メディアで活躍中。
ブルーザー・ブロディ
1946年、アメリカ合衆国ペンシルバニア州出身。フットボールのプロ選手として活動した後に、1973年にプロレスに転向した。母国アメリカではもちろん、日本でも常連外国人選手として人気を獲得した。リングで暴れまわるファイトスタイルから“超獣”や“キングコング”との異名をとったが、知的な一面も持っていたことから“インテリジェンス・モンスター”とも呼ばれた。1988年に遠征先のプエルトリコで、レスラーのホセ・ゴンザレスにナイフで刺されて亡くなった。
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