【BUBKA5月号】天龍源一郎がレジェンドについて語るミスタープロレス交龍録 第19回「ロード・ウォリアーズ」

天龍源一郎は、その40年間の“腹いっぱいのプロレス人生”で様々な名レスラーと出会い、闘い、交流した。ジャイアント馬場とアントニオ猪木の2人にピンフォールでの勝利を収めた唯一の日本人レスラーであり、ミスタープロレスとまで称された天龍。そんな天龍だからこそ語れるレジェンドレスラーたちとの濃厚エピソードを大公開しよう!

写真/平工幸雄

 俺がロード・ウォリアーズを初めて知ったのはテレビ東京で放映していた『世界のプロレス』だよ。凄いなあって思う反面、こんな1〜2分で勝っちゃって、アメリカのファンは単純に強いと思うのか、もっと試合を見せてくれって不満に思うのかって不思議な感じがしたよ。

 だって俺たち本職のプロレスラーから見ると、試合の組み立ても何もないからね。ただバッと出てきて、力任せにねじ伏せるっていう感じで、エンターテインメントじゃないなっていう。恰好は顔にペイントしていて、体はごつくて、ビジュアル的にはエンターテインメントなんだけど、試合はアルティメットとか異種格闘技戦みたいに秒殺しちゃうから、凄く不思議な印象だったよ。だからテレビ東京の放映を「ああ、こういうプロレスもあるんだな」って、何か俺たちのプロレスとは別枠の感覚で観ていたね。

 でも『世界のプロレス』で放映された時にプロレスファンが飛びついたのは、昔のようなちんたらした試合じゃなくて新しいプロレスっていう印象があったからだろうね。あっという間に人気に火がついて、全日本と新日本の争奪戦になったもんね。あの時、全日本じゃなくて新日本に行ってたら、どうなっていたかって興味があるよ。だって猪木さん、藤波さん、長州と戦うわけだから、どういう展開になっていたのかなって。

 結局、全日本に初来日することになって、両国国技館のプロレスこけら落とし(85年3月9日)で俺とジャンボがロード・ウォリアーズとやったんだよ。俺の感覚としては、ホークが俺たちに付き合って試合をこなしていて、アニマルはごついから、どうしようもないなっていうイメージだったんだけど、意外にアニマルの方がプロレスのことを真面目に考えていましたよ。

 見た目はホークの方が動きも派手だし、ホークの方がプロレスを考えてやってるように見えるけど、ホークの方が天然のテリー・ファンクみたいな感じで、アニマルの方がドリー・ファンク・ジュニアなんだよ。試合は技にバリエーションがあるホークが組み立てていると思ったら、何も考えてないと思っていたアニマルの方が真面目に日本のプロレスを考えて試合を組み立てていたから驚いたよ。何回か日本に来ている間にアニマルの方が意外に柔軟で、ホークの方が堅いなって印象が変わりましたよ。

 試合の途中でいきなりキレて、自制心を失くすのがホークで、試合の流れに関係なくガーッとやっちゃうんだけど、それがやんちゃなイメージになって、日本のファンにはホークの方が人気があったったと思うね。一方のアニマルは常に冷静に試合のことを考えて、観客の反応を見たりしながらコントロールしていた。だから結果的にアニマルの人柄が日本のファンに受け入れられたよね。


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天龍源一郎
1950年生まれ、福井県出身。1963年に大相撲入り。1976年のプロレス転向後は「天龍同盟」での軍団抗争や団体対抗戦で日本・海外のトップレスラーと激闘を繰り広げ、マット界に革命を起こし続ける。2015年の引退後もテレビなど各メディアで活躍中。

ロード・ウォリアーズ
ホーク・ウォリアーとアニマル・ウォリアーが1983年に結成したタッグチーム。ホークは1957年アメリカ出身。アニマルは1960年アメリカ出身。アメリカで活躍した後に、来日して全日本プロレス、新日本プロレス、SWSなどのリングに上がった。パワフルなファイトスタイルとペイントしたビジュアルで人気を博して、様々なタッグ王座を獲得していたが、2003年にホークが心臓麻痺で急逝する。ホークの死去後、アニマルはWWEなどで活躍し、2011年にはロード・ウォリアーズは初代マネージャーのポール・エラリングと共にWWE殿堂入りを果たした。