【BUBKA7月・8月合併号】 冬の時代を生き抜いた第三世代の真実 天山広吉

いまや第三世代を代表するレスラーとなった天山。猛牛と呼ばれる男も、レジェンドたちが健在だった新日本の道場で鍛え上げられた。付き人として慕った橋本のおなじみエピソードから、改名の理由まで、狂騒のプロレス人生を語る。

写真提供=平工幸雄

新弟子生活

――先日出た『リングの記憶 第三世代』(竹書房)という天山さんと、小島聡選手、永田裕志選手、中西学さんのインタビュー本、読ませていただきました!

天山 ありがとうございます。暴露話ではないけど、けっこうみんな昔話を赤裸々に語ってますよね(笑)。

――あれを読んで、あらためて天山さんらが新人時代の新日本プロレスっていうのは、今では考えられない世界だなって思いましたよ(笑)。

天山 もうハチャメチャで、世間の常識が通用しない世界ですもんね。今だったら逮捕されてるような(笑)。

――道場という閉鎖された世界が〝娑婆〞じゃなかった時代というか。この本にも書いてありましたけど、天山さんが新弟子時代、道場で素っ裸のまま手足を縛られて放置されたりするのが「日常茶飯事です」っていうんだから、どんな日常だという(笑)。

天山 シラフでそんなことやってるわけだからね。今となっては懐かしい思い出ですけど。

――また90年代初頭は、道場での練習や先輩後輩の上下関係も一番厳しかった時代と言われてますよね。

天山 厳しいのは当たり前だと思って入門したけど、「もうダメだ」と思うことが何回もありましたよ。練習だけじゃなく、先輩の雑用に一日中振り回されたりとか。気が休まる時間がまったくなかったから。自分の時間って、夜ふとんに入って寝るときだけなんですよ。でも、あまりにも疲れ過ぎていて、目を閉じたら次の瞬間、もう朝なんですよ。

――寝た気がしない、という(笑)。だから天山さんって一度、入門してすぐ辞めてるんですよね?

天山 じつはそうなんですよ。たった二日で辞めていて(苦笑)。

――二日は早いですね(笑)。

天山 あんなに入りたくて、ようやく入門テストに受かって入ったんだけど、入ってみたら「ここは自分のいるべき世界じゃない」と思ってしまってね。ホームシックみたいになって辞めちゃったんですよ。でも、実家に帰って1週間、2週間経つと「なんで辞めちゃったんだろう?」と、後悔の気持ちでいっぱいになって。山本小鉄さんと坂口征二会長に「もう一度やらせてください!」ってお願いして、「もう二度と辞めることはできないぞ。それでもいいのか?」みたいな感じで承諾していただいて、2ヶ月後に再入門したんです。

――でも、出戻りって普通の新弟子よりはるかに厳しくされるんですよね?

天山 そうなんですよ。某先輩からは「お前、何しに帰ってきたんだよ」「どうせまた、すぐ辞めるんだろ?」とか、嫌味を言われて。その某先輩はGさんなんですけど(笑)。

――一応、イニシャルにしておきます(笑)。

天山 あと僕が3月に辞めた後、4月に西村(修)さんと小原(道由)さんが入って、5月に再入門したら、本来後輩だった二人が先輩になってて、とくに小原さんからは相当厳しくされましたよ。上の先輩がいないときはその筋の人みたいな態度で、自分がやるべき雑用も全部こっちに押し付けてきたりね。


――インタビュ―の続きは絶賛発売中のBUBKA7月・8月合併号にて!


てんざん・ひろよし
1971年3月23日生まれ、京都府出身。新日本プロレスに入門、91年に本名「山本広吉」としてデビューした。ヤングライオン杯優勝で頭角を現すと、蝶野正洋、ヒロ斎藤と狼軍団を結成。97年からはnWo JAPANに参加しヒール・ユニットの一角として注目を集めた。小島聡とのタッグ・テンコジは世界最強タッグ決定リーグ戦で優勝するなど全日本プロレスのリングでも躍進。“猛牛”と称される豪快なファイトを繰り広げ、G1 CLIMAX連覇(03~04)や、NWA世界ヘビー級王座など数々のタイトルを獲得してきた。