【BUBKA7月・8月合併号】天龍源一郎がレジェンドについて語る ミスタープロレス交龍録 第21回「川田利明」
天龍源一郎は、その40年間の“腹いっぱいのプロレス人生”で様々な名レスラーと出会い、闘い、交流した。ジャイアント馬場とアントニオ猪木の2人にピンフォールでの勝利を収めた唯一の日本人レスラーであり、ミスタープロレスとまで称された天龍。そんな天龍だからこそ語れるレジェンドレスラーたちとの濃厚エピソードを大公開しよう!
写真(川田利明)/平工幸雄
若手の頃は道場で娘の子守をしてくれた
天龍同盟入り直後は俺と阿修羅の運転手
川田くんが全日本プロレスに入る前に(ジャイアント)馬場さんの面接を受けたのは、俺がミル・マスカラスと対戦した1982年2月4日の東京体育館だったんだよね。入場テーマの『サンダーストーム』が初めて流れた日だよ(笑)。ただ、俺が彼を認識したのは、しばらく経ってからだと思うね。あの頃は新弟子の入れ替わり立ち替わりが激しかったから、あまり印象になかったんだよね。多分、入ってから半年か1年ぐらいの間に、飯を食ってて「何で、お前はプロレスに入ったの?」って聞いたことがあると思うんだよ。その時に「三沢(光晴)さんの後輩で、足利工大附属高校でアマレスをやっていました」って聞いて〝三沢の後輩〞っていうことで、俺にインプットされたんだと思うよ。
で、ある時、前座の試合を観ていて、馬場さんに「馬場さん、何で川田をもっと上の方で使わないんですか? アマレスの下地があって、三沢の後輩なのに?」っていらんことを言ったら「どうすんだよ、あんな小さい奴を上で使ったって、お客が信用しないだろ」って言われて〝ああ、そういうことなんだな〞って。若手時代の川田くんが前から2、3試合目ばかしだったのは、そういうことなんだよ。若手の中では三沢と越中(詩郎)が最初に海外修行に出て、次に冬木(弘道)も海外に出て……一時期は道場にターザン後藤、川田、新弟子の小川良成の3人しかいなかったんだよね。その頃、俺はウチの代表(愛娘の嶋田紋奈・天龍プロジェクト代表)を連れて道場に練習に行ってたから、川田くんとか小川がよく「天龍さんに子守をさせられた」って言うんだよ。俺がベンチプレスやっている間、あいつらが紋奈さんを構ってくれてたんだよ(笑)。
その後、川田くんはアメリカ、カナダに1年ぐらい修行に行ったけど、帰国したらまた前座の2、3試合目になっちゃったんだよね。多分、当時の彼が身近な存在として強烈なライバル心を持っていたのは三沢じゃなくて、冬木だったと思うよ。あの2人は同じような境遇だったから「とりあえず、冬木さんを超えなきゃいけない」っていう気持ちが強かったと思う。俺と阿修羅(・原)が87年6月に龍原砲を結成して、8月に冬木が2度目の海外修行から帰ってきて、俺たちに合流するムードが出来上がっていたところで冬木よりも先に俺たちのところに飛び込んできたのが川田くんだったからね。冬木は若手の頃に俺の付き人だったから「冬木は天龍に付くだろう」っていう周囲の当然のような見方が俺も嫌で、ちょっと毛色の違う川田くんに着眼していたから、あの時は彼の気持ちと俺の気持ちがうまく合致したんだろうね。
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川田利明
1963年、栃木県出身。高校ではレスリング部に所属し、国体で優勝を果たす。1982年に全日本プロレスに入団。三沢光晴、小橋建太、田上明と合わせて「四天王」と呼ばれた他、三冠ヘビー級王座を獲得するなどの活躍を見せる。現在はリングからは遠ざかり、2010年に開業したラーメン店「麺ジャラスK」(店名の由来は自身のニックネーム「デンジャラスK」)の経営に専念。その経験をもとにしたラーメン店経営に関する書籍も出版している。
天龍源一郎1950年生まれ、福井県出身。1963年に大相撲入り。1976年のプロレス転向後は「天龍同盟」での軍団抗争や団体対抗戦で日本・海外のトップレスラーと激闘を繰り広げ、マット界に革命を起こし続ける。2015年の引退後もテレビなど各メディアで活躍中。
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