【BUBKA10月号】なんてったってキヨハラ 第1回 限りなく透明に近いライオンズブルー
あの頃、原辰徳に憧れて、清原和博に恋をした。
あれは確かに初恋だった。昭和61年、日本の景気は右肩上がりで、バブルへと突き進んでいた。中森明菜が「DESIRE」を歌い、少年隊が「仮面舞踏会」で踊り、テレビ界の天下を獲ったビートたけしはフライデー編集部に殴り込んだ。コカ・コーラのテレビCMでは、ディスコで赤い250ミリ缶を持ったワンレンボディコン姿のイカしたおネエちゃんが、「Coke is it!」なんつってもの凄いテンションでパーティーの始まりをシャウトする。そんな混沌と混乱と狂熱の時代に高卒新人記録の31本塁打を放ったのが、西武ライオンズのゴールデンルーキー清原和博だった。ライオンズが所沢に移転してきた1979年埼玉県生まれの俺が、本格的にプロ野球を見始めたのは1986年シーズンのことだ。兄ちゃんの影響もあり最初から熱狂的な巨人ファンかつ、原辰徳ファン。同時にパ・リーグは自然と地元の西武を応援した。巨人は死にたいくらいに憧れた花の都大東京のチーム、西武はオラが街の身近なチーム。タツノリ愛よりはちょっと軽い、「なんかアイツいいじゃん」的なキヨハラへの淡い恋心。本塁打を量産する10代の清原は、ヒーローであると同時に自分たちと最も年齢の近いプロ野球選手でもあった。
プロ入り直後、月の小遣いは5万円。無駄遣いをしたらあかんよと母親がうるさくて……ってお年玉の使い道を管理される俺らと変わらない。ニックネームは84年に三冠王を獲得した阪急の大砲ブーマーとかけて、めちゃくちゃベタな〝キヨマー〞。野暮ったいけどなんかいい。そう、晩年の番長キャラに対する恐怖感ではなく、若きキヨマーにあったのは圧倒的な親近感だ。なにせ初めてのオールスター戦で後楽園球場へ行く際は、所沢の山奥の寮から西武電車で都心まで出て、地下鉄に乗り換え球場へ向かったという。maxellのカセットテープUDシリーズの広告が目立つアイドル雑誌『週刊平凡』86年5月2日号には、関西遠征の際に身長186㎝のキヨマーが朝10時に合宿所を出て窮屈そうに電車を乗り継ぎ、車内で写真週刊誌『FOCUS』を熟読しながら集合場所の東京駅へ向かう様子がリポートされている。いやいや、それ俺らが埼玉の田舎から池袋へ遊びに行くのと同じ行動パターンだよ!
ーーインタビューの続きは絶賛発売中のBUBKA10月号にて!
なかみぞ・やすたか(プロ野球死亡遊戯)
1979年埼玉県生まれ。大阪芸術大学映像学科卒。ライター兼デザイナー。2010年10月より開設したブログ『プロ野球死亡遊戯』は現役選手の間でも話題に。『文春野球コラムペナントレース2017』では巨人担当として初代日本一に輝いた。主な著書に『プロ野球死亡遊戯』(文春文庫)、『ボス、俺を使ってくれないか?』(白泉社)、『原辰徳に憧れて-ビッグベイビーズのタツノリ30年愛-』(小社刊)、『令和の巨人軍』(新潮新書)などがある。
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