【BUBKA10月号】天龍源一郎がレジェンドについて語るミスタープロレス交龍録 第23回「三沢光晴」

天龍源一郎は、その40年間の“腹いっぱいのプロレス人生”で様々な名レスラーと出会い、闘い、交流した。ジャイアント馬場とアントニオ猪木の2人にピンフォールでの勝利を収めた唯一の日本人レスラーであり、ミスタープロレスとまで称された天龍。そんな天龍だからこそ語れるレジェンドレスラーたちとの濃厚エピソードを大公開しよう!

 もう三沢が亡くなって11年が過ぎたのか……。彼は、俺が1980年2月から81年5月の最後のアメリカ修行に行っている間に入ってきた若手なんだよね。で、ジャンボ鶴田の付き人になったから、最初の頃はそんなに接点がなかったんだよ。大人しい若手だったしね。ただ、練習を見ていると、何でもソツなく簡単にこなす奴だったっていう印象があるね。器用貧乏……とは言わないけど、なんでもサッサとやりきる三沢がいましたよ。

 接点が生まれたのはメキシコに行って、田園コロシアム(1984年8月26日)にタイガーマスクとして帰ってきてから。メキシコに行ってタイガーマスクになるまで半年もなかったけど、いざ帰ってきてタッグを組んだら、やりにくさはまったくなかった。タッチしたら、あとはほったらかしだったよ。タッチしたら、ちゃんとリングの中で自分を主張して、また俺につないできたよ。

 で、いきなりトップグループに入れられても物怖じしなかった。相手が先輩だからっていうのに物怖じは全然しなかったから、プロレスラーとしては、いい性格だったと思うよ。俺や(三遊亭)円楽師匠と遊び歩いていた頃に膝の手術をして長期欠場したんだけど、休んでいるのに外車を買って、(ジャイアント)馬場さんがメチャクチャ怒っていたのを憶えてるよ(笑)。だから、ある意味、自分本位で物怖じする男ではなかったという印象があるんだよね。

 試合として印象に残ってるのは、金沢でやった一騎打ち(87年6月1日)。あれは今映像を観てもいい試合だと思うよ。受けも受けたり、攻めも攻めたりっていう試合だったね。当時、低迷気味だったタイガーマスクが脱皮できるんだったら、それに越したことはないなっていう気概を持って、彼が出してくるものを全部受け止めたよ。俺にとってもセンスのある三沢といい試合がやれたことはターニング・ポイントになったね。あの試合を観て、馬場さんが俺と阿修羅・原が組むことを認めてくれて、そこから天龍革命が始まったんだからね。

 私生活で三沢と飲むようになったのは天龍革命がスタートする前後かな。円楽師匠たちと飲んでいる時にタイガーマスクで頑張っている三沢が頭に浮かんだから「三沢を呼ぼうよ!」って言ったら、みんなも「いいね!」ってなって、そこからだね。だいたい5時半か、6時ぐらいから飲み始めて、午前1時頃になると必ず寝ちゃうんだよ。で、俺たちがワイワイやってると、午前2時〜3時とかになってからガバッと起きて「じゃあ、飲みましょうよ!」って、朝まで飲まされたこともあったよ(笑)。本当に頑張ってたし、いい後輩だったから、ことさら目をかけていたっていう気持ちはあったね。


ーーインタビューの続きは絶賛発売中のBUBKA10月号にて!


三沢光晴
1962年、埼玉県出身。高校時代にレスリングで国体優勝。1981年8月に全日本プロレスでデビューを果たす。2代目タイガーマスクとして活躍した後、マスクを脱ぎ三沢光晴として一時代を築いた。全日本では1999年5月に社長に就任するが、翌2000年6月に退団して自らの団体ノアを旗揚げ。社長兼レスラーとして二足のわらじをはいた。2009年6月13日に試合中の不慮の事故で亡くなったが、例年6月にはノアでメモリアル大会が開かれている。

天龍源一郎

1950年生まれ、福井県出身。1963年に大相撲入り。1976年のプロレス転向後は「天龍同盟」での軍団抗争や団体対抗戦で日本・海外のトップレスラーと激闘を繰り広げ、マット界に革命を起こし続ける。2015年の引退後もテレビなど各メディアで活躍中。